人物

フレディ・マーキュリー

Freddie Mercury
AD1946年9月5日 – AD1991年11月24日(享年45)
イギリス重要度 3

概要

ロックバンド「クイーン」のボーカル。ザンジバル生まれで、「ボヘミアン・ラプソディ」などを作り、エイズで45歳で死んだ。

本文

フレディ・マーキュリーは1946年9月5日、イギリスの保護領だったザンジバル島のストーン・タウンで生まれた。本名はファルーク・バルサラ。両親はインド出身のパールシー(ゾロアスター教徒)で、父は植民地政府の会計係として島に赴任していた。少年時代の多くをインドで過ごし、ボンベイ(いまのムンバイ)に近いパンチガニの英国式の寄宿学校に通った。7歳でピアノを習い始め、12歳で学校の仲間とバンドを組んだ。ラジオで聴いた曲をすぐピアノで弾き直せたと友人は回想している。

1964年、ザンジバルで革命が起こり、アラブ系やインド系の住民に多くの死傷者が出た。17歳のフレディは家族とともに島を逃れ、ロンドン西郊のフェルサムに移り住んだ。イーリングの美術学校でグラフィック・デザインを学び、ロンドンの市場で古着を売りながら、いくつものバンドを渡り歩いた。

1970年、フレディはギターのブライアン・メイとドラムのロジャー・テイラーのバンドに加わり、反対を押し切って名前を「クイーン」に変えた。翌年ベースのジョン・ディーコンが入って4人がそろう。このころ姓をマーキュリーに改めた。1973年にデビューし、1974年の「キラー・クイーン」で人気をつかんだ。日本では早くから熱烈なファンがつき、1975年の初来日では羽田空港に大勢が押し寄せた。

1975年の「ボヘミアン・ラプソディ」は、フレディの代表作である。バラード、オペラ、ハードロックが一曲の中で入れ替わる6分近い曲で、ラジオ向きではないと危ぶまれたが、イギリスで9週にわたって1位を続けた。演奏を映した宣伝用の映像も評判になり、のちの音楽ビデオの先がけとされる(ビデオで曲を売る時代はMTVの開局で本格的に始まる)。フレディは「伝説のチャンピオン」「愛にすべてを」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」などを作り、エルヴィス・プレスリーへのあこがれを込めた「愛という名の欲望」はアメリカで1位になった。オペラから聖歌、ロカビリーまで取り込む幅の広さと、4オクターブ近い声が持ち味だった。

私生活では、1970年ごろに出会ったメアリー・オースティンと長く暮らした。のちにフレディは自分が同性に惹かれることを打ち明けて二人は別れたが、生涯の親友であり続け、フレディは自宅をはじめ遺産の多くを彼女に遺した。晩年はジム・ハットンという男性と暮らしていた。

1985年7月13日、アフリカの飢饉を救う慈善コンサートがロンドンのウェンブリー・スタジアムで開かれた(エチオピア飢饉とライヴ・エイド)。クイーンはここで20分ほどの演奏をした。フレディは7万を超える観客を声ひとつで動かし、この日の演奏はロックの歴史に残る名演として語られている。翌1986年のヨーロッパ公演の最後、ネブワースでのステージが、フレディにとって最後の公演になった。

1987年ごろ、フレディはHIVに感染していると知ったとされる。病気のことは公にせず、オペラ歌手モンセラート・カバリェと組んだ「バルセロナ」を作り、クイーンでも録音を続けた。1991年の『イニュエンドウ』の録音のころには、病のやつれが隠せなくなっていた。1991年11月23日、エイズであることを公表し、その翌日の24日、ロンドン・ケンジントンの自宅でエイズによる肺炎のため死んだ。45歳だった。

エイズの最初の報告から10年、エイズはまだ偏見に包まれた病気だった。世界的なスターの死は、この病を身近な問題として受け止めさせるきっかけの一つになった。1992年4月にはウェンブリーで追悼コンサートが開かれ、エイズの啓発に充てる基金が作られた。1995年には残された録音から最後のアルバム『メイド・イン・ヘヴン』が出され、2018年の映画『ボヘミアン・ラプソディ』で、その生涯は新しい世代にも知られることになった。

動画(1)

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