四条天皇
概要
鎌倉時代の第87代天皇。2歳で即位し、12歳のとき御所の廊下で転んで急死した。後継ぎ選びに幕府が介入した。
本文
四条天皇は鎌倉時代の第87代天皇で、名は秀仁(みつひと)。1231年、後堀河天皇の第一皇子として京の一条室町邸に生まれた。母は摂関家の九条道家の娘竴子(藻璧門院)である。わずか12年の生涯で、その終わり方の奇妙さによって名が残った。
皇統の事情から話す必要がある。1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が幕府に敗れると、鎌倉幕府の成立を開いた鎌倉の幕府は上皇の血筋を皇位から外し、後鳥羽の兄守貞親王(後高倉院)の系統から後堀河天皇を立てた。ところがこの系統は人が少なく、守貞親王も後堀河の兄たちもすでに出家していた。後堀河に皇子が生まれたことで、ようやく皇統が絶える不安が和らいだのである。
秀仁は生まれた年のうちに皇太子となり、翌1232年、父の譲位を受けて2歳で即位した。初めは後堀河上皇が院政を敷いたが、1233年に母、1234年に父が相次いで死に、幼い天皇の後ろ盾は外祖父の九条道家と、その舅の西園寺公経となった。宣陽門院や式乾門院、鷹司院が母代わりを務めたことも、身内の薄さを物語っている。
九条道家にとって、幼い天皇は権勢の支えだった。道家の子の頼経は1226年に鎌倉幕府の4代将軍となっており、道家は天皇の外祖父であると同時に将軍の父でもあった。朝廷と幕府の両方に身内を置いた道家の力は大きく、天皇の死はその足場を揺るがすことになる。後嵯峨天皇の即位ののち道家の影響力は衰え、頼経も将軍の座を退かされたうえ、1246年には京へ送り返されている。
1241年に元服し、その年の暮れに九条彦子を女御に迎えた。ところが翌年の1月9日(和暦。西暦では1242年2月10日)、天皇は12歳で急死する。伝えられるところでは、近習の者や女房たちを転ばせて楽しもうと御所の廊下に滑石の粉をまき、自分がそこで転んだのが原因だったという。幼い天皇はかなりのいたずら好きで、同じ年ごろの九条忠家と騒々しく遊び回っていたとも記録される。あまりに突然の死だったため、世間では後鳥羽上皇の怨霊や慈円の祟りだという噂が立った。転んで頭を打ったことが死因だとみる説もある。
天皇には皇子がなく、男の兄弟もいなかった。守貞親王の血筋で皇位を継げる者は、これで絶えた。次の天皇は後鳥羽上皇の孫から選ぶほかなく、九条道家ら公卿は順徳上皇の皇子忠成王を推した。順徳は承久の乱で父とともに倒幕に動き、佐渡に流されていた人物である。幕府の執権北条泰時はこれを嫌い、乱に加わらなかった土御門上皇の皇子邦仁王を推した。
鎌倉と京のあいだで使者が行き来するあいだ、皇位は11日間空いたままになった。結局、幕府の意向どおり邦仁王が即位して後嵯峨天皇となった。天皇の空位は、奈良時代の称徳天皇の死後以来、472年ぶりのことだった。望みを絶たれた順徳上皇は、同じ年の秋に配流先の佐渡で死んでいる。後嵯峨天皇は4年で譲位して院政を敷き、1252年には皇子の宗尊親王を鎌倉に送って、初めての皇族の将軍とした。この一件は、皇位を誰が継ぐかを幕府が事実上決める時代になったことをはっきり示した。武家の法として御成敗式目が定められたのは、その10年前である。
陵は京都の泉涌寺にある月輪陵で、九重の石塔が立つ。泉涌寺を再興した僧俊芿の生まれ変わりだという説も伝わり、俊芿と同じく大根を好んで食べたという話まで残っている。後嵯峨天皇の子孫がのちに持明院統と大覚寺統に分かれ、南北朝の対立へとつながっていくことを思えば、12歳の天皇の転倒は、皇位の行方を大きく変えたできごとでもあった。