ノートン一世
概要
サンフランシスコで「合衆国皇帝」を名のった男。破産の後1859年に即位を宣言し、市民に親しまれて死ぬまで「皇帝」として暮らした。
所属
アメリカ合衆国本文
ジョシュア・エイブラハム・ノートンは、イングランドのユダヤ人の家に生まれた。出生の記録は無いが、1818年2月4日とする証拠が多く、ロンドン近郊のデプトフォードで生まれたとみられる。1820年、一家は政府の植民計画に応じて南アフリカへ渡り、ノートンはそこで育った。商売を始めては失敗し、父の店を手伝ったのち、1845年末にケープタウンを離れた。
ノートンがサンフランシスコに着いたのは1849年の暮れとされる。ゴールドラッシュでにぎわう町で、穀物の取引や土地の売買に成功し、1852年ごろには町でも名の知れた裕福な実業家になっていた。転落のきっかけは米だった。中国の米が入らなくなって値が上がったのを見て、ペルーから届く米を買い占めようとしたが、直後に別の船が米を運んできて値が崩れた。契約をめぐる裁判はカリフォルニア州最高裁まで争われて負け、1856年、ノートンは破産した。
1859年9月17日、ノートンは新聞社に一通の手紙を持ち込んだ。合衆国の市民の大多数の求めにより、自分は「合衆国皇帝」であることを宣言する、という内容だった。新聞は面白がってそれを載せ、ここから20年におよぶ「ノートン一世」の治世が始まった。皇帝はまもなく合衆国議会の解散を命じ、陸軍に議会を追い払うよう命じたが、もちろん誰も従わなかった。南北戦争のころには争いを収めようとカトリックとプロテスタントの教会に自分を皇帝として認めるよう求め、のちには民主党と共和党の廃止を宣言した。

フランスがメキシコに出兵して皇帝を立てると(フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊)、ノートンはこれに反対して「メキシコの保護者」を称号に加えた。ヴィクトリア女王には何度も手紙を送り、両国の絆のために結婚しようと持ちかけたが、返事は来なかった。サンフランシスコとオークランドを橋かトンネルで結べ、という勅令も出している。これはのちにベイブリッジ(1936年開通)と海底トンネルとして実現し、彼の先見の例として語られている。
1865年ごろからノートンは、下宿の小さな部屋で暮らした。陸軍の将校から譲られた金の肩章付きの青い軍服を着て、羽根飾りの帽子をかぶり、杖を手に町を歩いた。歩道や路面電車の具合、警官の身なりを見て回り、出会った人と時の話題を語り合った。自分の名前で紙幣を出し、行きつけの店ではそれで支払いができた。渡し船や汽車にはただで乗れ、友人たちが家賃や食事を助けた。
1867年、私設の警備員がノートンを精神病院へ送ろうとして捕まえたことがある。市民は怒り、新聞は「彼は血を流さず、誰からも奪わず、どの国も荒らさなかった。同じ稼業の者たちについては、そうは言えない」と書いた。警察署長はすぐにノートンを放して詫び、それから警官たちは道で皇帝に敬礼するようになったという。1870年の国勢調査では、職業の欄に「皇帝」と書かれた。
皇帝は町の騒ぎにも顔を出した。1870年代の終わり、サンフランシスコでは中国人を排斥する集会がたびたび開かれ、暴動も起きていた。1878年4月、ノートンはそうした集会の始まる直前に現れ、小さな箱の上に立って、指導者のデニス・カーニーと群衆に解散して家へ帰るよう呼びかけた。聞き入れられはしなかったが、新聞はこの出来事を大きく伝えた。
晩年には、本当はナポレオン3世の隠し子だという噂や、実は大金持ちだという噂も流れた。1880年1月8日の夜、ノートンは雨の中、講演会へ向かう途中の街角で倒れ、そのまま死んだ。持っていたのは小銭数ドルと金貨一枚で、噂の財産はどこにも無かった。実業家たちが費用を出して立派な棺を用意し、新聞は「国王は死せり」と見出しを掲げた。弔問には約1万人が訪れたと報じられている。
マーク・トウェインは『ハックルベリー・フィンの冒険』の「王様」をノートンをもとに描いたとされ、スティーヴンソンも小説に彼を登場させた。伝記作家ウィリアム・ドルーリーは「サンフランシスコが皇帝で食べていたのであって、皇帝がサンフランシスコで食べていたのではない」と書いている。害の無い奇人を町ぐるみで受け入れた話として、いまも町の誇りのように語られている。