人物

エドウィン・ドレーク

Edwin Drake
AD1819年3月29日 – AD1880年11月9日(享年61)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

ニューヨーク州の農家に生まれ、鉄道の車掌を務めた。健康を害して退職し、無料乗車券を持っていたという理由で、石油会社の調査に雇われた。大佐の肩書は、地元の信用を得るために会社が名乗らせたものである。塩井の掘削工ビリー・スミスを雇い、鉄管を打ち込む方法で掘り抜いた。特許を取らず、油田の投機で財を失い、病んで動けなくなった。1873年、ペンシルヴェニア州が年金を認めた。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ドレークの油井AD1859年8月27日 · 掘った

本文

エドウィン・ローレンティン・ドレークは1819年3月29日、ニューヨーク州グリーンヴィルの農家に生まれた。学校の教育はほとんど受けていない。19歳で家を出て、ホテルの店員、船の乗組員、雑貨屋の店員と職を転々とした。1850年ごろ、ニューヨーク・アンド・ニューヘイヴン鉄道の車掌になった。

エドウィン・ドレークの肖像
エドウィン・ドレークの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1850年代の半ば、彼は最初の妻を亡くし、自身も体を壊した。1857年には鉄道の仕事をやめ、コネチカット州ニューヘイヴンのホテルで暮らしていた。同じホテルに、銀行家のジェイムズ・タウンゼンドが住んでいた。

そのころ、灯りの油が足りなくなっていた。それまでの上等な灯油は鯨の油で(鯨油)、鯨の取りすぎで値が上がっていた。代わりに注目されていたのが、地面からしみ出す黒い油、石油である。ペンシルヴェニア州の北西部では、昔から川面や湧き水に油が浮き、人々はそれを布に吸わせて集め、薬として売っていた。この油を精製すれば上等な灯油になる、という分析がイェール大学の化学者から出ていた。灯油のランプが考え出されてまもない時代である。タウンゼンドたちはペンシルヴェニアの土地の権利を買い、現地を調べて実際に油を掘る人間を探していた。

ペンシルベニア州タイタスヴィルの米国初の油井とドレーク
ペンシルベニア州タイタスヴィルの米国初の油井とドレークWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ドレークが選ばれた理由は、いくつか伝わっている。仕事をやめて時間があったこと。少額だが自分でも出資したこと。そして、鉄道の無料乗車券をまだ持っていて、旅費がかからなかったこと。最後の理由は、実際にそう記録されている。会社は彼に「大佐」の肩書を名乗らせ、手紙の宛名を「ドレーク大佐」にして先に送った。ただの元車掌より、地元の人々がまじめに相手にするだろうと考えたのである。彼に軍歴はなかったが、生涯そう呼ばれた。

1857年12月、ドレークはペンシルヴェニアの小さな村タイタスヴィルに着いた。まず昔ながらの方法、しみ出す油をすくい集めることを試したが、一日に数ガロンにしかならない。話にならなかった。そこで彼は、塩水をくむ井戸を掘る技術で、油を掘り当てることを考えた。この地方では塩をとるために深い井戸を掘っていて、ときどき邪魔ものとして油が出ていたのである。

ところが、掘り手が見つからなかった。油を掘ると言うと笑われた。雇ったはずの男が現れず、一年近くが無駄になった。1859年の春、ようやくウィリアム・スミス、通称「アンクル・ビリー」を雇った。塩井掘りの道具を自分で作れる鍛冶屋で、息子たちを連れてきた。

掘り始めると、すぐに地下水がわいて穴の壁が崩れた。ドレークの工夫は、鉄の管を岩盤まで打ち込み、その管の中を掘ることだった。管が壁を支え、水と土砂を防ぐ。重い鑿を綱でつるして落とし、引き上げてはまた落とす。小さな蒸気機関がそれを動かした。進むのは一日に1メートル前後だった。

金は尽きかけていた。出資者たちはとうに見放し、タウンゼンドが自分の金を送り続けていたが、1859年8月、彼もついに、残りの支払いをして作業をやめるよう書き送った。その手紙が届く前の8月27日、土曜日の夕方。深さ約21メートルで、鑿が岩の割れ目にすとんと落ちた。その日の作業はそこで終わった。翌日、穴をのぞいたスミスは、水の上に黒い液体が浮いているのを見つけた。手押しのポンプで、一日に20バレル前後の油がくみ上げられた(ドレークの油井)。

知らせはすぐに広まり、タイタスヴィルの周りには一年のうちに何百本もの井戸が掘られた。ドレークは鉄の管を打ち込む方法の特許を取らなかった。誰でもまねができ、実際にまねされた。彼自身は1860年に会社を離れ、油の仲買を始めたが、まもなく町を去り、1860年代の半ばにはニューヨークの株の投機で財産を失った。

その後の彼は病に苦しんだ。痛みで歩けなくなり、暮らしは貧しかった。再婚した妻ローラが縫い物をして家計を支え、一家は各地を転々とした。1860年代の終わり、石油を始めた男が困窮しているという話が広まり、石油の町の人々が募金を集めた。1873年、ペンシルヴェニア州議会は彼に年1500ドルの年金を認めた。

1880年11月9日、ドレークはペンシルヴェニア州ベスレヘムで死んだ。61歳だった。1901年、彼と妻の遺体はタイタスヴィルに移され、記念碑が建てられた。その費用を出したのは、石油の帝国スタンダード・オイルの重役ヘンリー・ロジャーズだった。ドレークが特許を取らなかった方法で掘られた油が、その帝国を築いていた(スタンダード・オイルの解体)。

最初の油はランプを灯すために掘られた。やがて自動車が生まれ、石油は灯りの燃料から、動力と化学製品の原料になり、20世紀の産業と戦争と暮らしを形づくった。最初の井戸のあった場所には、いま、櫓と蒸気機関の小屋が復元され、博物館になっている。

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