千葉周作
概要
北辰一刀流の開祖。江戸神田お玉が池の玄武館で合理的な稽古法を広め、幕末最大の剣術流派を築いた。
本文
千葉周作は、江戸時代後期の剣術家で、北辰一刀流の開祖である。諱は成政、周作は通称。江戸の神田お玉が池に開いた道場の玄武館は、幕末の江戸でもっとも門人の多い道場の一つになり、その稽古法は明治以後の剣道にまで引き継がれた。
生まれは陸奥国で、寛政5年(1793年)とされる(翌年とする説もある)。生地にも諸説あったが、門弟が天保11年(1840年)に藩へ出した身元書に「本吉郡気仙沼村」とあり、いまの宮城県気仙沼市の生まれとみられている。父の千葉忠左衛門成胤は馬医者で、周作が幼いころ、子を連れて栗原郡荒谷村(現在の宮城県大崎市)に移り住んだ。周作はこの地で北辰夢想流という家伝の剣術を学んだ。
十五、六歳のころ、父とともに下総国松戸へ移り、小野派一刀流の流れをくむ中西派の浅利義信に入門した。さらに江戸の中西道場に通い、中西子正や寺田宗有らに鍛えられた。腕を認められて浅利の養女を妻に迎え、婿となったが、一刀流の組太刀(決まった形)を改めたいと考えるようになり、師と意見が合わずに妻を連れて独立した。こうして家伝の北辰夢想流と一刀流を合わせて開いたのが北辰一刀流である。
独立後は武蔵・上野・信濃などを回って他流試合を重ね、門人を増やした。上野国では、門人たちが伊香保神社に流派の名を記した額を奉納しようとして土地の馬庭念流と激しく対立し、断念に追い込まれた。この騒ぎの後、周作は上野から手を引き、江戸に腰を据える。文政5年(1822年)秋に日本橋品川町で玄武館を開き、のちに神田お玉が池へ移した。
周作の名を高めたのは、その教え方である。当時の剣術は形の稽古を重んじ、奥義を秘して段階の多い免許を小出しに与えるのが普通だった。周作は竹刀と防具を使った打ち込みの稽古を中心に据え、技を言葉で説明し、免許の段階を三つに減らした。他流で10年かかる修行が5年で済むと言われ、門人が集まった。「技の千葉、力の斎藤、位の桃井」と並び称された江戸の三大道場のうち、技の千葉とはこの玄武館のことである。構えでは剣先を鶺鴒の尾のように小刻みに揺らし、相手に打ち出しの起こりを読ませない工夫をしたといわれる。剣は瞬息であり、心・気・力が一致してはじめて勝てる、という周作の言葉が伝わる。
同じ中西道場には、音を立てずに勝つ「音無しの剣」で知られた高柳又四郎がいた。若いころの周作が又四郎と立ち合って引き分けたという話もあるが、これは門人筋の脚色ともいわれ、確かではない。
天保10年(1839年)、周作は水戸藩主の徳川斉昭に招かれて同藩の剣術師範となり、のちに馬廻役として百石を与えられた。子の栄次郎と道三郎も水戸藩に仕えた。なかでも次男の栄次郎は剣の才で知られ、「千葉の小天狗」と呼ばれた。弟の千葉定吉は京橋桶町に別の道場を構え、土佐から来た坂本龍馬はこの桶町の道場で北辰一刀流を学んでいる。玄武館の門からは、浪士組を作った清河八郎、のちに江戸城の明け渡しの交渉に関わる山岡鉄舟、新選組の山南敬助や伊東甲子太郎らが出た。
周作は安政2年12月10日(1856年1月17日)、江戸で没した。黒船来航から2年半ほど後のことで、門人たちが動乱の中心に立つのはその後である。水戸藩では、門人の一人が天狗党の乱に関わったため、一時北辰一刀流が禁じられたこともあった。

明治以後も北辰一刀流の剣士は警視庁や大日本武徳会で剣術を教え、打ち込み稽古を軸にした周作の教え方は近代の剣道の土台の一つになった。2003年には全日本剣道連盟の剣道殿堂に顕彰されている。小説や映画、漫画にもたびたび描かれ、少年剣士を主人公にした漫画『赤胴鈴之助』も、主人公を周作の門下に置いている。