高柳又四郎
概要
江戸後期の剣客。中西派一刀流の中西道場で学び、相手に竹刀を触れさせず勝つ「音無しの剣」で知られた。
本文
高柳又四郎は、江戸時代後期の剣客である。諱は利辰、または義正ともいう。相手がいくら打ち込んでも自分の竹刀に触れさせず、音も立てずに勝ったことから、その剣は「音無しの剣」と呼ばれた。中里介山の長編小説『大菩薩峠』の主人公、机竜之助の「音無しの構え」は、この又四郎から着想を得たとされる。『大菩薩峠』は大正2年(1913年)に新聞での連載が始まった長編で、又四郎の名を知らない読者にも「音無し」の言葉を広めた。
生年は文化5年(1808年)とされる。よく知られた系譜では、飛騨郡代を務めた幕臣の高柳左京亮定用の次男で、高柳家は先祖が戸田流の印可を受けて以来、代々戸田流の剣術を家に伝えていた。祖父の定常は家伝のほかに一刀流なども学び、「高柳派」を興したという。
ただし、出自には異説がある。幕府の公式の記録である『続徳川実紀』には、文化9年(1812年)、御蔵奉行の高柳久米蔵の子の又四郎が武芸に励んだことで召し出され、小十人組に入ったという記事がある。この記事の又四郎が同じ人物なら、生年や父についての通説は改めなければならない。同名の別人の可能性もあり、決着はついていない。
若いころの話は、講談めいたものが多い。父が飛騨郡代として赴任したころ、刀剣だけを狙う盗賊が飛騨を荒らし、賊が戸田流の使い手と知った12歳の又四郎は、その後を追って家を出たという。4年後に仙台領の胆沢郡に現れ、医者でありながら戸田流の達人で義賊でもあった藤木道満のもとで小太刀を修めた、とも伝えられる。どれも確かな史料で裏づけられる話ではない。
確かなのは、その後江戸に出て、中西派一刀流の中西道場に入ったことである。中西道場は竹刀と防具による打ち込み稽古をいち早く取り入れた道場として知られ、多くの剣客を出した。又四郎は第3代の中西子啓に学び、その死後は寺田宗有、白井亨とともに第4代の中西子正を支えた。三人は「中西道場の三羽烏」と呼ばれ、恐れられたという。寺田はのちに天真一刀流を、白井は天真伝白井流を開いており、いずれも形の奥にある心の働きを重んじた剣客だった。又四郎の「音無し」も、そうした中西道場の気風の中で磨かれたものとみることができる。
同じ中西道場の門下には、のちに北辰一刀流を開く千葉周作がいた。周作に望まれて又四郎が立ち合い、引き分けたが、周作は勢い余って道場の床板を踏み破った、という話が伝わる。もっとも、当時の周作はまだ修行の途上で、又四郎の相手にはならなかったはずだとして、この話を周作の門人の創作とみる意見もある。
長い竹刀で江戸の道場を次々に破った柳河藩の大石進と立ち合った話もよく知られる。又四郎は大きな鍔を用意し、器械を相手に正規の竹刀を使うまでもないと冷笑したので、大石も定寸の竹刀に持ち替えた。1本目は長くにらみ合ったすえ、大石の突きを切り返した又四郎の胴が浅く入ったが、試合の後、又四郎は自分の竹刀が音を立てたのは遅れた証拠であり、この勝負は自分の負けだと言った、という。これも後世の剣豪伝に載る逸話で、細部まで事実とは言い切れない。大石進は大石神影流の使い手で、江戸に出て評判を取ったのは天保年間とされるが、この試合がいつ行われたのかもはっきりしない。
又四郎は欲の薄い人柄で、道場を開いて暮らしを立てようとは考えなかったとされる。そのためか、晩年のことはまったく分かっておらず、没年も伝わらない。子孫は熊本にいるともいわれる。
名の知られた剣客でありながら、確かな足跡はわずかしか残っていない。それでも「音無しの剣」という言葉は、相手の気配を読み、打たせずに勝つという剣術の理想を一言で表したものとして語り継がれ、小説や漫画、映画の中で生き続けている。