人物

オードリー・ヘプバーン

Audrey Hepburn
AD1929年5月4日 – AD1993年1月20日(享年63)
イギリス重要度 3

概要

『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』で知られる映画女優。晩年はユニセフ親善大使として飢えた子どもたちのために働いた。

本文

オードリー・ヘプバーンは、1929年5月4日、ベルギーのブリュッセル郊外イクセルで生まれた。父はイギリス人の実業家、母はオランダの男爵家の出のエラ・ファン・ヘームストラである。父は彼女が幼いころに家を出ており、この別れは生涯の心の傷になったと本人は語っている。イギリスの寄宿学校でバレエを習い始めたが、1939年、母とともに中立国だと思われていたオランダのアーネムへ移った。

翌1940年、ドイツ軍がオランダを占領した。少女時代のオードリーは占領下で過ごし、1942年には叔父が占領軍への抵抗に対する報復として処刑された。バレエを続けながら、抵抗運動の資金集めのための秘密の公演に出たことがあるとも伝えられる。1944年から翌年にかけての冬には、ドイツ軍がオランダ西部への食料の運び込みを止め、多くの人が飢えて死んだ(オランダの飢餓の冬)。彼女も栄養失調に苦しみ、チューリップの球根を粉にして食べたこともあったという。1945年に解放されたとき、救援に来た国連の救済機関(のちのユニセフの前身の一つ)の食料と薬が彼女を救った。この経験が、晩年の活動の出発点になる。

戦後はアムステルダムとロンドンでバレエを学んだが、背が高すぎることと、戦時中の栄養不足で体が弱っていたことから、一流のバレリーナになる道はあきらめた。ロンドンの舞台や映画の端役で働くうち、1951年、作家コレットに見いだされてブロードウェイの舞台『ジジ』の主役に抜擢された。

1953年の『ローマの休日』で、彼女は一躍世界の大スターになった。窮屈な公務を抜け出してローマの町で一日を過ごす王女を演じ、初めての主演作でアカデミー主演女優賞を受けた。続いて『麗しのサブリナ』(1954年)、『パリの恋人』(1957年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)などに出演した。細身の体に短い前髪、デザイナーのユベール・ド・ジバンシィが仕立てた簡素な黒いドレスは、それまでの肉感的なハリウッド女優とは違う新しい美しさとして、世界中の女性の装いを変えた。

戦争の記憶は消えなかった。同じ1929年生まれのアンネ・フランクの日記を読んで深く心を動かされた彼女は、映画化の際に主演を求められたが、自分の体験と重なりすぎるとして断ったと伝えられる。

私生活では、1954年に俳優メル・ファーラーと結婚して1960年に長男ショーンを、1969年にイタリアの精神科医アンドレア・ドッティと結婚して1970年に次男ルカを産んだ。家庭を大事にした彼女は、1960年代の終わりから映画の仕事を大きく減らし、スイスのトロシュナの家で子どもを育てた。料理もよくし、トマトとバジルだけで作るスパゲッティ・ポモドーロを好んだことは、次男ルカが母の思い出と料理をまとめた本で紹介されている。

1988年、彼女はユニセフの親善大使になった。最初に訪れたのは、内戦と飢饉にあえぐエチオピアだった(エチオピア飢饉とライヴ・エイドのころからその窮状は世界に知られていた)。それから、トルコ、ベネズエラ、エクアドル、スーダン、バングラデシュ、ベトナムなどを回り、子どもたちの現状を見て、世界の議会や報道の前で支援を訴えた。華やかな女優の名声を、飢えた子どもたちに人々の目を向けさせるために使ったのである。1946年に生まれたユニセフ(ユニセフの設立)の活動の顔として、彼女の果たした役割は大きかった。

1992年9月、内戦と飢饉の続くソマリアを訪れた。帰国後まもなく腹部のがんが見つかり、手術を受けたが、すでに手の施しようがなかった。同じ年の12月にはアメリカの大統領自由勲章を受けている。1993年1月20日、トロシュナの自宅で63歳で亡くなった。死後、アカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。

オードリー・ヘプバーンは、銀幕の妖精として記憶されるだけでなく、自分が飢えから救われた経験を、次の世代の子どもたちを救う仕事につなげた人として語られている。

動画(1)

【偉人飯】世紀の大女優オードリー・ヘプバーンが大好き『ポモドーロ』にときめきすぎた!非株式会社いつかやる大女優オードリー・ヘプバーンが好んだポモドーロを紹介する
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1929年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →