人物

楊大眼

Yang Dayan
? – 518年
北魏重要度 2

概要

北魏の武将。孝文帝・宣武帝に仕えて南朝と戦い、「関羽・張飛でもかなわない」と恐れられた。龍門石窟の造像記でも知られる。

本文

楊大眼は、中国の南北朝時代に北魏に仕えた武将である。孝文帝と宣武帝のもとで南朝の斉や梁と戦い、その武勇は「関羽や張飛がよみがえっても楊大眼にはかなわない」とうたわれた。生まれた年は分からず、518年に死んだとされる。伝記は『魏書』と『北史』にある。

楊大眼は、いまの甘粛省南部の武都を本拠とした氐族の国、仇池国の王・楊難当の孫にあたる。並外れた身体の力を持っていたが、妾の子だったため、幼いころは一族から顧みられなかったという。北魏の太和年間(477〜499年)に仕官したとき、3丈(9メートル前後)の縄を髷に結んで走り、縄が地面につかずにまっすぐ張るほどの速さを見せて、軍の指揮官に取り立てられたと伝えられる。

孝文帝は、都を平城から洛陽に移し、鮮卑の風俗を漢風に改めた皇帝である(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。孝文帝は南の斉を攻める遠征を繰り返し、楊大眼はこれに従って功を挙げ、その勇ましさは「六軍に冠たる」と称された。孝文帝が499年に死ぬと、続く宣武帝の初めには寿春に入り、その功で安成県開国子に封じられた。

502年、南では蕭衍が斉を倒して梁を建て、武帝となった(蕭衍(梁の武帝))。梁の軍が河南城を占めると、楊大眼は諸軍を率いて戦い、梁の将を斬って7千人を捕らえる大勝を収めた。宿預を梁に取られたときも、別の将として出陣してこれを破った。勢いに乗った北魏軍は淮水のほとりの鍾離を囲んだが、ここで大敗する。楊大眼は部将たちが夜のうちに逃げ出すのを止められなかった責めを負い、一兵卒に落とされた。507年の鍾離の戦いは、北魏の南への進出が止まった戦いとして知られる。

やがて復帰した楊大眼は、梁の攻勢に備えて淮水の守りに就き、宣武帝の死後も荊山を守った。梁が淮水をせき止めて築いた大きな堰を攻めたこともあったが、攻め落とすことはできなかった。最後は荊州刺史として任地にあり、2年ほどでそこで死んだ。

逸話は多い。淮水や泗水のあたりでは「楊大眼が来るぞ」と言えば泣く子も黙ったといい、任地に虎が出ると退治して首を市にさらしたとも伝わる。字は読めなかったが記憶力がよく、聞いたことは忘れず、命令はすべて部下に口で述べて書き取らせた。兵がけがをすれば涙を流していたわり、兵の子どもと遊ぶような人柄で慕われたが、晩年は喜怒が激しくなり、兵に恐れられたともいう。ある人に「あなたの瞳の中に車輪のようなもう一つの瞳があるとは知らなかった」と言われ、「戦場では英気が湧いて瞳に車輪が浮かぶのだ」と答えたという話もある。妻の潘氏も武装して狩りや戦いに出る女傑で、楊大眼は同僚に「これは潘将軍だ」と自慢したという。

楊大眼の名は、武勇だけでなく書の歴史にも残っている。洛陽の南、伊水の両岸に開かれた龍門石窟に、楊大眼は亡き孝文帝の供養のために仏像を造らせた。そこに刻まれた「楊大眼造像記」は、北魏の角ばった力強い楷書の名品として知られ、龍門の造像記のなかでも特にすぐれた「龍門四品」の一つに数えられる。字の読めなかった武将の名を冠した文字が、のちの時代に書を学ぶ人々の手本となったのである。

死後、一家は不幸に見舞われた。後妻と先妻の子らが争い、子どもたちは父の遺体を馬に乗せて南へ逃れ、梁に降ったと『魏書』は伝える。『梁書』は、楊大眼の子の楊華が、たくましい姿の若者で、北魏の実権を握っていた霊太后に思いを寄せられ、災いを恐れて梁へ逃れたと伝える。霊太后は楊華を慕い続け、「楊白華歌辞」という歌を作って宮女たちに昼も夜も歌わせたという。北魏はその後、霊太后の政治の乱れと各地の反乱を経て、534年に東西に分かれていく。楊大眼が守り抜こうとした南の国境も、やがて南北の争いの中で何度も書き換えられた。

動画(1)

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