山口多聞
概要
日本海軍の軍人。第二航空戦隊司令官としてミッドウェー海戦で空母飛龍の反撃を指揮し、艦と運命を共にした。
本文
山口多聞は、太平洋戦争で空母部隊を率いた日本海軍の軍人である。ミッドウェー海戦で3隻の空母が炎上した後、ただ1隻残った空母「飛龍」で反撃を指揮し、最後は艦と運命を共にした。搭乗員に課した猛訓練から、「人殺し多聞」という異名でも呼ばれた。

1892年(明治25年)8月17日、東京の小石川に、旧松江藩士・山口宗義の三男として生まれた。名の「多聞」は、楠木正成の幼名「多聞丸」にちなむ。開成中学から海軍兵学校に進み、1912年に40期を次席で卒業した。同期には大西瀧治郎や宇垣纏がいる。第一次世界大戦では、地中海で連合国の船団を護衛する任務に加わった。
山口はアメリカに二度駐在し、1934年からは大使館付武官を務めた。アメリカの国力をよく知る軍人の一人だった。1929年のロンドン海軍軍縮会議には随員として加わり、山本五十六とともに条約に強く反対した。海軍大学校を次席で卒業し、軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長などを経て、1940年には第一連合航空隊司令官として中国の重慶爆撃を指揮した。
1940年11月、第二航空戦隊司令官となり、空母「蒼龍」「飛龍」を率いた。昼も夜も航空部隊に猛訓練をさせて事故が相次いだことから、「人殺し多聞」「気違い多聞」と呼ばれたという。1941年12月の真珠湾攻撃に参加し、その後もウェーク島、オーストラリアのダーウィン、インド洋と各地を転戦した。一方で、訓練の厳しさは実戦での犠牲を減らすためだったとも語られ、部下が危うくなれば自らが責任を負うという姿勢から慕う者も多かった。大食で知られ、料亭で三人前を平らげたという逸話も残る。

南雲忠一中将の率いる機動部隊の中で、山口はしばしば積極的な意見を具申した。同期の宇垣纏は日記に、山口は第一航空艦隊の消極的な考え方に飽き足らず、作戦中もたびたび意見を述べていたと書き残している。真珠湾でも、もう一度攻撃をかけるべきだと考えていたと伝えられるが、正式な具申があったかどうかについては証言が分かれる。
1942年6月、山口は「飛龍」に座乗してミッドウェー作戦に加わった。6月5日(日本時間)、敵の空母らしいものを発見したとの報が入ると、山口は兵装を積み替えるより、陸上攻撃用の爆弾のままただちに攻撃隊を出すべきだと進言した。しかし南雲忠一中将の司令部はこれを採らず、積み替えの最中に米軍の急降下爆撃を受けて、「赤城」「加賀」「蒼龍」が炎上した。
山口は「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と信号を発し、残った「飛龍」から二度にわたって攻撃隊を送り出した。この攻撃で米空母「ヨークタウン」は大破し、のちに日本の潜水艦に沈められた。だが夕刻、「飛龍」も急降下爆撃を受けて飛行甲板を破壊され、戦う力を失った。
山口は総員を飛行甲板に集め、艦を沈めなければならなくなったことをわびて別れを告げた。部下たちは退艦を懇願したが、山口と艦長の加来止男大佐は艦に残った。先任参謀が形見を求めると、山口は黙ってかぶっていた戦闘帽を渡したという。「飛龍」は味方の駆逐艦の魚雷で処分され、沈んだ。49歳だった。戦死の日付で海軍中将に進んだ。
山口の死は海軍にとって大きな損失とされ、その積極的な判断は戦後も高く評価されてきた。一方で、ミッドウェーでの進言が通っていても結果が変わったかどうかは議論が分かれる。少将旗は呉市海事歴史科学館に、戦闘帽は江田島の教育参考館に残されている。再婚した妻の孝子を深く愛し、戦地から250通にのぼる手紙を送ったことも知られている。