人物

宗道臣

So Doshin
AD1911年2月10日 – AD1980年5月12日(享年69)
日本重要度 2

概要

1947年に香川県多度津町で少林寺拳法を始めた武道家。技と教えを組み合わせ、人づくりの武道として広めた。

所属

日本

本文

宗道臣は、日本の武道である少林寺拳法を始めた人物である。1947年、敗戦後の香川県多度津町で道場を開き、拳の技とともに生き方の教えを説いて、人を育てる武道として少林寺拳法を広めた。本名は中野理男といい、のちに道臣と改め、宗道臣を名乗った。

1911年2月10日、岡山県英田郡江見村(いまの美作市)に生まれた。少年のうちに父を亡くし、1924年ごろ家を出て、祖父のいる満州(中国東北部)へ渡ったとされる。その後、日本に残した母や妹、祖父が相次いで亡くなり、若くして身寄りのない身になった。1928年に再び中国へ渡り、軍の特務機関の仕事に就いたという。1930年には飛行隊に入ったが、翌年に心臓弁膜症と診断されて除隊し、また中国へ戻った。

満洲事変の後、日本が満州国を建てて大陸への進出を強めた時期に、宗は中国各地で暮らしながら拳法を学んだ。本人の説明によれば、道教の寺院で陳良という師に就き、1933年からは北京にいた文太宗という老師に北少林義和門拳を学んだ。1936年には嵩山少林寺で法脈を継ぐ儀式を受け、義和門拳の第21代を継いだという。ただしこの来歴は本人と教団の伝える話で、外から確かめられる史料は乏しい。その後は満州で鉄道の警護隊員や、綏陽の商工会の事務局長などを務めた。

満洲事変に関わる図版:Mukden 1931 japan shenyang
満洲事変Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

転機は敗戦だった。1945年8月9日、ソ連軍が満州へ攻め込み、宗は東満州でその攻撃に遭った。第二次世界大戦が終わった後も約1年をソ連軍の軍政下の満州で過ごし、国家や軍が崩れた中で人々がむき出しの利己心で争う姿を見た。そこで「人、人、人、すべては人の質にある」と悟り、日本へ帰ったら祖国の立て直しに役立つ人間を育てようと心に決めたという。

引き揚げた宗は、香川県の多度津町に落ち着いた。敗戦後の町は荒れ、若者たちの気持ちもすさんでいた。宗はそうした若者を集め、1947年10月25日、金剛禅総本山少林寺として少林寺拳法を始めた。菩提達磨がインドから伝えたとされる拳の技を教えるとともに、釈迦の自己確立の教えと、達磨の不屈の精神を説き、自分の体験から来る人生観を語って聞かせた。強くなることそのものより、自分を確かにし、人と助け合える人間を作ることが目的だった。

少林寺拳法が宗教の形をとって始まったのは、占領下で武道の稽古が厳しく制限されていたこととも関わるとされる。道場では稽古の前に経を唱える鎮魂行を行い、指導者は法話で教えを説いた。宗自身も、拳法は人を育てるための手段であり、技はそのための方便だという考えを繰り返し語っている。

技の面では、突きや蹴りの剛法と、相手の力を利用して投げたり抑えたりする柔法を組み合わせ、相手に攻めさせてから守りつつ反撃する形を基本とした。教えの面では「力愛不二」(力と愛は二つで一つ)、「拳禅一如」(修行の体と心は一つ)といった言葉を掲げ、技の稽古と、法話や座禅を一体のものとした。稽古は2人1組で行い、相手を倒すことより互いに上達することを重んじた。

1950年には戸籍の名も道臣に改めた。1951年に宗教法人の認証を受け、1957年に全日本少林寺拳法連盟を設け、1972年に国際少林寺拳法連盟、1974年に少林寺拳法世界連合を結成するなど、組織を整えていった。学校も開き、拳士を指導者として育てる仕組みを作った。1963年に出した『秘伝少林寺拳法』はよく売れ、1975年には千葉真一が宗を演じる映画も作られて、少林寺拳法の名は全国に知られるようになった。

1980年5月12日、宗は急性心不全のため69歳で亡くなった。中国の嵩山少林寺の名を冠してはいるが、少林寺拳法は宗が戦後の日本で、自分の体験と学んだ技をもとに組み立てた新しい武道である。敗戦の中で人づくりを掲げて始まった道場は、日本の内外に広がり、多くの学校や企業にも稽古の場を持つようになった。

動画(1)

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