人物

沢田美喜

Sawada Miki
AD1901年9月19日 – AD1980年5月12日(享年78)
日本重要度 2

概要

岩崎弥太郎の孫。戦後、混血の孤児のためにエリザベス・サンダース・ホームを開き、「二千人の混血児の母」と呼ばれた。

所属

日本

本文

沢田美喜は1901年9月19日、東京の本郷で、三菱の3代目の社長・岩崎久弥の長女として生まれた。祖父は三菱を興した岩崎弥太郎である。日本でも指折りの富豪の家に育ち、東京女子高等師範学校の附属高等女学校を中退したのち、津田梅子らを家庭教師に迎えて学んだ。家の宗教は真言宗だったが、1922年にキリスト教徒の外交官・沢田廉三と結婚して自らも改宗した。

夫の任地に従って、ブエノスアイレス、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークで暮らした。4人の子に恵まれ、各地の社交界で多くの人と知り合った。パリでは歌手ジョゼフィン・ベーカーと親しくなり、ニューヨークでは作家パール・バックと友人になった。のちの活動を支える人のつながりは、この時期にできたものが多い。なかでも1931年、ロンドンで訪ねた孤児院バーナードス・ホームで、捨てられた子どもを人から求められる人間に育てるのは素晴らしい魔法だ、という院長の言葉に深く心を動かされたと、彼女は後に書いている。

第二次世界大戦では、海軍を志願した三男の晃が戦死した。敗戦後、本郷の岩崎邸は連合国軍の総司令部(GHQ)に接収された。占領下の日本では、進駐した兵士と日本人女性とのあいだに生まれ、親にも周りにも見捨てられた混血の子どもたちが生まれていた。1947年2月、列車の中で網棚から落ちてきた包みに混血の赤ん坊の亡きがらが入っており、彼女がその母親と疑われた、という出来事を、彼女は自ら救済を決意したきっかけとして語っている。

彼女は神奈川県大磯にあった岩崎家の別荘に目をつけた。別荘は財閥の解体で財産税として国に納められようとしていたが、彼女は総司令部にかけあい、360万円余りを払って買い戻した。財閥の一族は取得できなかったため、名義は教会にした。資金は自分の持ち物を売り、寄付を集めて工面した。1948年2月、ここに児童養護施設エリザベス・サンダース・ホームを開く。名前は、日本に40年住んだイギリス人女性エリザベス・サンダースが亡くなったとき、170ドルを遺贈してくれたことにちなむ。最初の寄付だった。

運営は苦しかった。占領軍は兵士の落とし子の存在を表に出されることを嫌い、日本の側にも混血の子への偏見が根強かった。彼女はたびたびアメリカに渡って講演し、寄付を募った。ベーカーは子どもを養子に迎え、ホームのために演奏会も開いた。1950年には県から児童福祉施設として認められ、1953年には子どもたちが偏見にさらされずに通えるよう、ホームの中に聖ステパノ学園の小学校を開いた。名は戦死した晃の洗礼名から取った。1955年には昭和天皇と皇后がホームを訪れている。

子どもたちが大人になるにつれ、彼女は働く場所を探した。1962年にはブラジルのアマゾン川流域に聖ステパノ農場を開き、多くの卒園生がそこへ移り住んだ。彼女は「二千人の混血児の母」と呼ばれた。ただ、ホームで育った子の数には数え方による幅があり、近年の研究では、子どもを社会から切り離して育てようとした面や、実の母親との面会を断った例があったことも指摘されている。

彼女は隠れキリシタンの遺物の収集家でもあり、各地から集めた874点の資料は、大磯の澤田美喜記念館に残されている。1980年5月12日、旅先のスペインのマヨルカ島で心臓発作を起こし、78歳で亡くなった。戦争が生んだ子どもたちを、国も社会も見ないふりをしていた時代に、財閥の娘という身の上と人脈のすべてを使って引き受けた。その生涯は、占領期の日本が抱えた影の部分を、いまに伝えている。

動画(1)

2千人の混血児を救った【沢田美喜】戦後の差別と戦った女神に憧れる事しか出来ない!非株式会社いつかやる戦後の混血児差別と戦い2千人を救った生涯を解説する
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