ローランド・ヒル
概要
キダーミンスターの教師の家。12歳で父の学校の助手になり、独学で数学と天文学を学んだ。兄弟と作った学校では、生徒による自治と、体罰の廃止を実践した。オーストラリアへの植民の事務にも関わった。1837年『郵便の改革——その重要性と実行可能性』。役所の実務を知らない外部者として、費用の構造を数字で分析し、猛烈な反対を押し切って通した。後に郵政の長官。
関わったできごと(1)
ペニー・ブラックと郵便改革AD1840年5月6日 · 考えた本文
ローランド・ヒルは1795年12月3日、イングランド中部ウスターシャーの町キダーミンスターに生まれた。父トマス・ライト・ヒルは私塾を開く教師で、急進的な考えの持ち主だった。フランス革命に共感したことで町の人々の反感を買ったこともあったという。家は貧しかった。

ローランドは正規の教育をほとんど受けていない。12歳で父の学校の助手になり、年下の子どもに教えながら、自分は独学で数学や天文学、測量を学んだ。
1819年、彼は兄弟とともにバーミンガム郊外に新しい学校を建てた。ヘイゼルウッド校である。この学校のやり方は、当時としては極めて異例だった。体罰をやめ、生徒が選んだ委員会が規則を作って違反を裁く。成績を競わせるより、それぞれの進み具合に合わせて学ばせる。生徒たちは学校の印刷所を動かし、雑誌まで出した。ベンサム(ジェレミー・ベンサム)ら改革に関心を寄せる人々が注目し、学校は評判になった。建物の設計もヒル兄弟が手がけ、温水で暖める仕組みを備えていた。

1830年代、彼は教育から離れ、南オーストラリアに植民地を作る委員会の書記になった。流刑者を送らず、自由な移民だけで新しい植民地を作るという構想で、ヒルは膨大な書類と統計、人の移動の管理を受け持った。
ヒルは郵便の役人ではなかった。まったくの外部の人間である。郵便を考えるようになったきっかけとして、有名な逸話がある。ある宿の娘が、届いた手紙の受け取りを断った。当時、料金は受け取る側が払う仕組みだったからである。見かねて料金を払ってやると、娘は打ち明けた。封筒の外に兄と決めた印が付いていて、それを見れば無事が分かる。中身は空っぽなので受け取る必要はない、と。もっともこの話は、もとは詩人コールリッジの体験として語られていたもので、ヒルのきっかけとして語られるようになったのは後のことだとされる。

確かなのは、彼が数字で物事を分解するのが得意だったことである。1837年、彼は小冊子『郵便の改革、その重要性と実行可能性』を出した。手紙をロンドンからエディンバラへ運ぶ費用を一通あたりで計算すると、ごくわずかにしかならない。費用の大半は、距離ごとに違う料金を計算し、受取人から一通ずつ代金を集める手間にかかっている。だから距離で料金を変えるのは間違いで、重さで決めた安い一律の料金を、差出人が前もって払うのがよい。料金を下げれば手紙の数が増え、収入も取り戻せる、というのである。
郵政省は猛反対した。郵政長官は、聞いた中で最も途方もない計画だと切り捨てた。議会に委員会が設けられ、ヒルは証言に立った。反対する側が経験と印象で語ったのに対し、ヒルは数字で答えた。商人や新聞も改革を後押しし、1839年に法律が成立した。郵政省が彼を受け入れなかったため、ヒルは財務省に期限付きで招かれた。

1840年1月10日、国内の手紙は重さ半オンスまで、距離にかかわらず1ペニーになった。5月には、差出人が料金を前払いしたしるしとして、世界最初の郵便切手が使われ始めた(ペニー・ブラックと郵便改革)。手紙の数は、改革の翌年には前の年の倍以上に増えた。
ところが1842年、政権が代わると、ヒルは職を解かれた。郵政省の役人たちが彼を追い出したのである。彼は鉄道会社の経営に移り、そこでも安い料金と時間どおりの運行を進めた。1846年に政権が戻ると郵政省に迎えられ、1854年には郵便の実務の最高責任者になった。1860年にナイトの爵位を受け、1864年、健康を損ねて退いた。議会は彼に2万ポンドの特別の報奨を贈った。
1879年8月27日、ヒルはロンドンで死んだ。83歳だった。ウェストミンスター寺院に葬られている。
彼が示したのは、費用の中身を実際に分解して見よ、という発想だった。運ぶ量が増えても費用がほとんど増えないものは、細かく料金を分けるより、一律に安くして量を増やしたほうがよい。同じ考えは、のちの鉄道の運賃や電話の料金にも繰り返し現れる。安い前払いの郵便はたちまち各国に広がり、30年あまり後には、国と国のあいだの郵便を一つの料金でつなぐ仕組みが生まれた(万国郵便連合)。けれども改革のいちばん大きな効果は、収入でも効率でもなかった。それまで手紙と縁のなかった普通の人々が、家族や友人に手紙を書くようになったことである。