マンフレート・フォン・リヒトホーフェン
概要
第一次世界大戦のドイツの戦闘機乗り。公認80機を撃墜し、赤く塗った乗機から「レッドバロン(赤い男爵)」と呼ばれた。
所属
ドイツ帝国本文
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンは1892年5月2日、プロイセンのシュレージエン地方、ブレスラウ近郊のクラインブルク(いまのポーランドのヴロツワフの一部)で、古い貴族の家に生まれた。父は軍人で、家の男子はみな「男爵(フライヘル)」を名乗った。少年時代は乗馬と狩りを好み、11歳で幼年学校に入り、1911年に槍騎兵連隊に入った。
第一次世界大戦が始まったとき、彼は騎兵の偵察将校だった。しかし塹壕戦が始まると騎兵の出番はなくなり、伝令や電話の係に回された。補給部隊への転属を命じられたのを機に、航空隊への転属を願い出た。願書に「チーズと卵を集めるために戦争に来たのではない」と書いたという話はよく知られている。1915年5月、まず偵察機の観測員として空に上がった。ライト兄弟の初飛行からまだ12年しかたっていない頃である。

操縦を学ぶきっかけは、ドイツの撃墜王オスヴァルト・ベルケとの出会いだった。初めての単独操縦では機体を壊すなど、出だしは平凡だったが、1916年8月、ベルケが新設の戦闘機中隊に彼を引き抜いた。ソンムの戦いが続いていた9月17日、カンブレー上空で最初の公認撃墜をあげる。彼は撃墜のたびにベルリンの宝石商に日付と機種を刻んだ銀杯を注文し、60個に達したところで、封鎖で銀が足りなくなり注文をやめた。11月には、イギリスの撃墜王ラノー・ホーカー少佐を長い格闘戦の末に撃ち落としている。
1917年1月、16機目の撃墜でドイツ最高の勲章プール・ル・メリットを受け、第11戦闘機中隊の隊長になった。このころ乗機を真っ赤に塗らせた。部下から自分の位置が見えるように、というのが本人の説明である。部下たちも機体の一部を赤く塗り、やがて各中隊が色で見分けられるようになった。4月には1か月で22機を落とし、イギリス側はこの月を「血の4月」と呼んだ。6月には四つの中隊をまとめた第1戦闘航空団の司令となった。派手な塗装と、列車やテントで前線を渡り歩く身軽さから、この部隊は「空飛ぶサーカス」と呼ばれた。
彼は曲芸のような操縦をする型ではなかった。太陽を背にして上から降下し、僚機に背後を守らせて確実に撃つ。ベルケの教えを守る戦術家であり、射撃の名手だった。ドイツの宣伝はその名を最大限に使い、自伝『赤い戦闘機乗り』も軍の指示で書かれた。ただ本人は後に、この本について「もうあれほど生意気ではない」と距離を置いたとされる。
1917年7月6日、彼はベルギー上空の戦闘で頭に重い傷を負い、一時は目が見えなくなりながらも不時着した。医師の反対を押して復帰したが、その後は飛行のあとの吐き気や頭痛に悩み、性格も変わったといわれる。地上勤務を勧められても「塹壕の兵士はみな務めを果たしている」と言って断った。
1918年4月21日の朝、彼はソンム川の上空で、新米のカナダ人パイロットの乗るキャメル機を低空で追っていた。そのとき1発の銃弾が胸を貫き、機体はヴォー・シュル・ソンム近くの丘に落ちた。25歳だった。イギリス空軍は追ってきたロイ・ブラウン大尉の戦果としたが、弾の入り方から、いまでは地上のオーストラリア軍の機関銃手が撃ったとみる説が有力である。誰が撃ったのかは決着していない。日ごろ慎重な彼が敵地の低空深くまで追いかけた理由として、頭の傷の後遺症を挙げる研究もある。
遺体は連合軍の手で軍葬に付され、「勇敢で立派な敵へ」と記した花輪が贈られた。1925年にはベルリンのインヴァリーデン墓地へ移され、国葬が営まれた。1975年からはヴィースバーデンの一族の墓に眠っている。公認80機という撃墜数は大戦中の最多で、多くが英軍の損失記録と照合できる。三葉機フォッカーDr.Iの印象が強いが、それで落としたのは80機のうち19機である。後世、「レッドバロン」の名は映画や漫画に繰り返し描かれ、死んだはずの赤い機体が空に現れたという怪談めいた話まで語られるようになった。