ファラリス
概要
シチリアのギリシア人都市アクラガスの僭主。青銅の牛に人を入れて焼き殺したと伝えられ、残酷な支配者の代名詞になった。
本文
ファラリスは、紀元前6世紀にシチリア島南岸のギリシア人の都市アクラガス(今のイタリアのアグリジェント)を治めた僭主である。僭主とは、生まれながらの王ではなく、力や策略で一つの都市の権力を握った支配者を指す。同じころアテネではペイシストラトスが僭主となっており、紀元前6世紀はギリシア世界の各地に僭主が現れた時代だった。彼の支配はおよそ紀元前570年から紀元前554年ごろまでとされる。
アクラガスは、紀元前580年ごろ、近くの都市ゲラの人々が建てた新しい植民市だった。古い記録によれば、ファラリスは町の高台にゼウスの神殿を建てる仕事を任され、その資金と人手を使って権力を握ったという。どのように奪ったかについては、祭りの日に武装した者を集めて不意を突いたという話も伝わるが、細部は後世の書き手によるもので確かではない。
彼の時代のアクラガスは、建てられてまだ一世代ほどの若い町で、周りには先住のシカノイ人の土地が広がり、西にはカルタゴの勢力圏があった。町を守り広げる強い指導者が求められていたことが、一人の男に大きな権力が集まった背景にあったと考えられている。アクラガスはその後も栄え、紀元前5世紀には丘の尾根に巨大な神殿が並ぶ、ギリシア世界でも指折りの豊かな都市になった。
支配のもとでアクラガスは栄えたとされる。町に水を引き、建物を整え、城壁で固めた。北岸の都市ヒメラの人々は、詩人ステシコロスの警告を聞かずに彼を全権の将軍に選んだと伝えられる。ステシコロスがヒメラの人々に語ったという寓話(復讐のために人を背に乗せた馬が、そのまま人に使われるようになる話)は、のちにアリストテレスが書き留めている。ある辞書は、彼がやがてシチリアのほぼ全体を従えたとまで記すが、これは誇張とみられている。
ファラリスの名を有名にしたのは、青銅の牛の話である。中が空洞になった青銅の牛を職人ペリラオスに作らせ、罪人をその中に閉じ込めて下から火を焚いた。焼かれる者の叫びが、牛の鳴き声のように響く仕掛けだったという。牛を作ったペリラオス自身が最初に入れられたという話も古くからある。彼から100年もたたないうちに、詩人ピンダロスが「青銅の牛で人を焼いた」非情な支配者としてその名を詠んでおり、この話が早くから語られていたことが分かる。
一方で、赤子を食べたといった話まで付け加えられており、どこまでが本当かは分からない。暴君の悪名はしばしば膨らむ。確かなのは、アクラガスに青銅の牛が実際にあったことである。紀元前406年にカルタゴがアクラガスを落としたとき、牛はカルタゴへ運ばれた。紀元前146年のカルタゴ滅亡のあと、小スキピオが奪われた美術品をシチリアの諸都市に返したとき、この牛もアクラガスに戻ったとされる。

ファラリスの最期は、市民の蜂起だった。テレマコスという人物が反乱を率いて彼を倒した。このテレマコスは、のちに紀元前5世紀にアクラガスを治めた僭主テロンの祖先にあたる。いくつかの伝えでは、ファラリスは自分の作らせた青銅の牛で焼かれたという。
紀元後2世紀の風刺作家ルキアノスは、ファラリスの使者がデルフォイの神殿に青銅の牛を奉納しようとして、自分は罪人を罰しただけだと弁明する話を書いている。暴君の名は、古代の人々にとっても語りがいのある題材だった。
中世から近世にかけて、ファラリスの名は意外な形で残った。彼が書いたという手紙の集まりが伝わり、名文として読まれていたのである。しかし1699年、イギリスの学者リチャード・ベントリーが言葉づかいや年代の食い違いを突き、手紙は紀元後2世紀ごろの偽作だと証明した。この論証は、古典の文献を批判的に読む学問の手本として知られる。青銅の牛はその後も残酷な刑罰の象徴として語られ、「ファラリスの牛」の名で今も拷問の歴史に必ず登場する。