人物

延沢満延

Nobesawa Mitsunobu
1544年 – 1591年(享年47・推定)
最上氏重要度 2

概要

出羽の野辺沢城主。最上八楯の一員として最上義光と戦い、のち義光に従った。怪力の逸話で知られる。

本文

延沢満延(のべさわみつのぶ)は、出羽国の村山地方北部、いまの山形県尾花沢市にあった野辺沢城の城主である。延沢ではなく野辺沢と書くこともある。享年から逆算すると1544年ごろの生まれになる。延沢氏は、天童氏を盟主とする国人たちの連合「最上八楯」の一員で、領内には延沢銀山を抱えていた。この銀山は江戸時代の初めに大いに栄え、延沢氏の力の裏づけになっていた。最盛期は寛永年間で、山あいに大勢の鉱夫が集まったという。いまの銀山温泉は、この銀山の名残を伝える温泉町である。

16世紀後半の村山地方では、山形城の最上義光が勢力を広げようとしていた。義光は伊達政宗の母の兄にあたり、のちに出羽の大大名になる人物である。周りの国人たちは天童氏のもとにまとまって義光に抗い、満延はその中で武勇に優れた将として知られた。天童氏はもともと最上氏から分かれた一族で、この争いは本家と分家の主導権争いでもあった。八楯の「楯」は館、つまり城を指す。戦いはたびたび義光の側の敗北に終わったとされる。

義光は、八楯を崩すには満延を味方に引き入れるしかないと考えた。1584年(天正12年)、義光は娘の松尾姫を満延の息子の又五郎に嫁がせ、満延を自分の側へ引き抜いた。このとき満延は、従う条件として盟主の天童頼澄の命を助けることを求めたという。満延を失った八楯は崩れ、天童城は落ちた。頼澄は約束どおり見逃され、陸奥の国分盛重を頼って落ちのびた。頼澄はのちに伊達家に仕え、天童氏は伊達家の家臣として続いたとされる。同じ年、義光が谷地城の白鳥長久を滅ぼすと、満延はその旧領の一部を与えられている。主君を替えても旧主の命を守らせたところに、この人の筋の通し方がうかがえる。義光にとっては、八楯を一つずつ攻め落とすよりもはるかに安くつく勝ち方だった。義光はこのあとも調略と婚姻を重ねて出羽の国人たちを取り込み、関ヶ原の戦いの後には57万石の大名にまでなる。その最初の大きな一歩が、満延の引き抜きだった。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

満延の名を後世に残したのは、むしろ怪力の逸話である。最上家の軍記『最上義光記』は、次のような話を伝える。義光は満延の力を試そうと、家中の力自慢を7、8人庭に潜ませ、満延に飛びかからせた。満延はこれを即座に振り払った。驚いた義光は逃げ出し、太さ2尺ほどの桜の木にしがみついたが、満延はなおも義光を引っ張り、とうとう桜の木を根こそぎ引き抜いて、義光ごと倒してしまったという。軍記の話なので、そのまま事実とは言えない。それでも、最上家の中で満延がどれほど恐れられた存在だったかはよく伝わってくる。

このほかにも、太い鉄の棒を振るって戦場で敵をなぎ倒したといった話が伝わるが、確かな史料で裏づけられるものではない。満延は戦国の東北で、力と義理の両方で語られる武将になった。大男で力が強く、敵に回すと厄介だが味方にすれば頼もしい。満延の像は、地方の軍記の中でそうした形に整えられていった。

1590年(天正18年)11月、満延は義光に従って上洛した。豊臣政権のもとで大名たちが京に集められていた時期である。この年、豊臣秀吉は小田原の北条氏を降し、奥羽の大名たちの領地を定め直していた。義光もいち早く秀吉に従い、所領を認められている。その京で病に倒れ、翌1591年(天正19年)3月に死んだ。享年48。息子の又五郎が最上家の家臣として野辺沢を継いだが、1622年に最上家そのものが改易され、野辺沢の地も最上家の手を離れた。

満延は全国的に名の知られた武将ではない。しかし最上義光が村山地方をまとめるうえで、この一人を味方にできたかどうかが分かれ目だったことは、八楯がすぐに崩れたことからも分かる。大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987年)では「野辺沢能登」の名で登場している。

動画(1)

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