前田光世
概要
講道館の柔道家。「コンデ・コマ」の名で世界を巡って異種格闘技戦を重ね、ブラジルでグレイシー柔術の源流を作った。
所属
日本本文
前田光世は、講道館の草創期の柔道家である。1904年に日本を出て二度と帰らず、アメリカ、ヨーロッパ、中南米を巡ってボクサーやレスラーと戦い、最後はブラジルのアマゾン河口の町ベレンに根を下ろした。スペインで名乗った「コンデ・コマ」の名で知られ、ブラジルで彼に学んだグレイシー家から、のちのグレイシー柔術、ブラジリアン柔術が生まれた。
1878年、青森県中津軽郡船沢村(いまの弘前市)に生まれた。本名は栄世といった。中学を中退して上京し、早稲田中学に入って相撲や野球で名を上げた。1897年、東京専門学校(のちの早稲田大学)に柔道場ができたのをきっかけに講道館へ入門し、講道館四天王の一人横山作次郎らに鍛えられた。初段の昇段審査では、嘉納治五郎の命で前田だけが15人抜きを命じられ、それをやり遂げたという。1901年からは学習院で柔道を教えた。
日露戦争のさなかの1904年11月、講道館4段の前田は、柔道を海外に広める一行に加わってアメリカへ渡った。滞在費を稼ぎ、柔道の強さを示すため、各地で賞金をかけて挑戦者を募り、ボクサーやプロレスラーと戦った。アトランタでは怪力で知られた巨漢のブッチャー・ボーイを関節技で破っている。講道館ではあまり寝技を稽古しなかったが、アメリカでは相手が「参った」をするまで終わらない試合ばかりで、必要に迫られて寝技を磨いたと本人が語っている。このころ名を栄世から光世に改めた。

その後はメキシコ、キューバ、ヨーロッパと戦いの場を移した。スペインに滞在していた1908年ごろから、身分を隠すためにコンデ・コマのリングネームを使い始めた。コンデはスペイン語で伯爵の意味で、コマはいつも金に「困る」ことからとったと自伝で語っているが、由来には諸説ある。各地の異種格闘技戦で通算2000勝以上を挙げ、柔道衣を着た試合では負けなかったと伝えられる。興行に出たことで講道館から破門されたという話もあるが、実際は一時の出入り差し止めで、のちに5段に昇段している。
1914年11月、前田はブラジル南部のポルト・アレグレに上陸し、ブラジルで初めて柔道を実演した。リオ・デ・ジャネイロやサン・パウロなどを巡って、1915年12月にベレンへ着いた。一度ヨーロッパへ戻ったのち、1917年に再びブラジルへ来てベレンに定住した。1921年には、ベレンのスポーツクラブの中にブラジルで最初の柔道場を開いている。
1917年、ベレンの劇場で前田の実演を見た14歳の少年カーロス・グレイシーが弟子入りした。カーロスは兄弟に技を教え、体の弱かった末弟のエリオが、力の弱い者でも使えるように技を改良して、グレイシー柔術を作り上げた。前田の柔術は、のちに総合格闘技の時代に世界を驚かせる流派の源流となったのである。
キューバから戻った後、前田は公の試合から身を引き、日本人のアマゾン移住に力を注いだ。現地の州政府と日本の大使をつなぎ、1926年に来た鐘紡の調査団を案内して入植地探しを助けた。1927年にはブラジルに帰化し、名をオタービオ・ミツヨ・マエダとした。1929年、最初の移民を乗せた船がリオ・デ・ジャネイロに着いた9月7日は、ちょうどブラジルの独立の記念日で、前田もベレンから港まで迎えに出ている。移民はアマゾンの奥のトメアスーに入ったが、開拓は苦しく、多くの人が土地を捨てた。前田は彼らに仕事を世話し、野菜を広めるために家でブラジル人に野菜料理を振る舞った。領事館ができる1934年まで在留日本人の面倒を見続け、「ベレンの私設領事」と呼ばれた。

1940年、紀元二千六百年の式典に招く話があったが、前田は入植者が苦しんでいる中で自分だけが栄誉を受けることを断った。第二次世界大戦の最中の1941年11月28日、病のためベレンで亡くなった。最期に「日本の水が飲みたい」と言ったと伝えられる。死後、講道館から7段を贈られ、故郷の弘前公園には功績をたたえる碑が建てられた。墓はベレンのサンタ・イザベル墓地にある。