ル・ペトマーヌ(ジョゼフ・ピュジョール)
概要
フランスの放屁芸人。本名ジョゼフ・ピュジョール。肛門から吸った空気で音を鳴らす芸でムーラン・ルージュの看板になった。
本文
ル・ペトマーヌは、19世紀末のパリで大評判をとった芸人の芸名である。フランス語で「放屁する」を意味する動詞に、「…狂」を表す語尾を付けた造語で、「おなら狂」とでも訳せる。本名はジョゼフ・ピュジョール。1857年、南フランスのマルセイユで、石工で彫刻師の父のもとに5人兄弟の長男として生まれた。
芸の始まりは偶然だった。学校を出てまもないころ、海で泳いでいて頭を水に沈め息を止めると、下腹に氷のような冷たさが広がった。驚いて岸に上がると、肛門から水が流れ出てきた。医者は心配ないと言った。のちに軍隊に入ったピュジョールは、この体質を仲間に打ち明け、鍋に張った水を直腸に吸い込んで、あたりに噴き出してみせる座興を何度も披露した。やがて水だけでなく空気も吸い込んで出せることに気づいた。
ここが大事なところで、ピュジョールの芸は本物のおならではない。直腸に空気を吸い込み、肛門の括約筋を加減しながら吐き出して、さまざまな高さと長さの音を作っていた。だから匂いもしない。除隊してパン屋になると、この音で客を楽しませ、やがて舞台に立つことを決めた。1887年にマルセイユで公演を始めて評判をとり、1892年にパリに出て、1889年にモンマルトルに開いたばかりのキャバレー、ムーラン・ルージュの舞台に上がった。赤い風車を屋根に載せたこの店は、カンカン踊りで客を集め、ロートレックが描いたことでも知られる。ピュジョールはそこでいちばんの呼び物になった。舞台ではまず口上を述べてから、少女の小さな音、花嫁の音、しゅうとめの音と、聞き分けられる音を次々と鳴らしてみせたと伝えられる。
演目は、大砲の砲撃音や雷鳴をまねるもの、ゴム管でオカリナとつないで『オー・ソレ・ミオ』や『ラ・マルセイエーズ』を吹くもの、何メートルも離れたろうそくを吹き消すものなどだった。上品な紳士然とした身なりで、真面目な顔で演じたことが、かえって笑いを大きくした。赤い上着に黒いズボン、白い手袋という正装で舞台に立ったとされ、客席では笑いすぎて気を失う女性まで出たという話も残る。観客の中には、のちの英国王エドワード7世となる王太子、ベルギー国王レオポルド2世、精神分析のジークムント・フロイトらもいたと伝えられる。興行収入は当時の大女優サラ・ベルナールの舞台をしのぐこともあったという。
ところが1894年、ピュジョールは経済的に困っていた友人を助けようと、別の場所で即興の芸を披露した。これが契約違反だとしてムーラン・ルージュの興行主に訴えられる。劇場側は勝訴したものの、得たのは3000フランにすぎず、看板芸人を失うことになった。ピュジョールは一回の公演で2万フランを稼ぐとされた呼び物で、劇場にとっては割に合わない勝ちだった。その後は自分の一座を組んで旅回りを続け、農場の情景を詠んだ自作の詩に、動物の鳴き声を音で添えるような、より洗練された演目を工夫していった。
転機は第一次世界大戦だった。戦争の惨禍を前にして、人を笑わせる意欲を失ったピュジョールは舞台を降り、マルセイユのパン屋に戻った。のちにはトゥーロンでビスケット工場を営んでいる。1945年、88歳で亡くなった。医学校が大金と引き換えに遺体を調べたいと申し出たが、家族はこれを断った。遺体はラ・ヴァレット=デュ=ヴァールの墓地に葬られ、墓は今も残っている。

ピュジョールの芸は、下品な見世物として片づけられがちだが、彼自身は自分の体を楽器のように扱う技芸として磨き上げた。19世紀末のパリの大衆娯楽が、どれほど雑多で自由だったかを伝える人物でもある。その生涯はのちに伝記や映画、舞台の題材になった。1967年には英語の伝記も出版され、その名はフランスの外でも知られるようになった。