人物

勝小吉

Katsu Kokichi
1802年 – 1850年(享年48・推定)
江戸幕府重要度 2

概要

勝海舟の父。生涯無役の小身の幕臣で、喧嘩と放浪に明け暮れた半生を自伝『夢酔独言』に書き残した。

本文

勝小吉は江戸時代後期の幕臣で、勝海舟の父である。享和2年(1802年)、旗本の男谷平蔵の三男として江戸に生まれた。母は正妻ではなく、小吉は正妻のもとに引き取られて乳母に育てられた。男谷家は、越後出身の盲人で検校の位を得た米山検校の子が興した家とされる。文化5年(1808年)、小吉は禄高41石の勝家に末期養子として入った。勝家は役に就かない小普請の小さな家で、小吉は生涯ついに役を得ることがなかった。

小吉の前半生は、晩年に自ら書いた『夢酔独言』に詳しい。それによれば、幼いころから喧嘩ばかりで学問を嫌った。5歳のとき喧嘩で相手の口を石で切り、父に下駄で頭を殴られた。7歳のころには二、三十人を一人で相手にして敵わず、悔しさに脇差を抜いて切腹しようとし、近くの米屋に止められたという。

文化12年(1815年)、数え14歳の小吉は江戸を出奔して上方を目指した。道中で旅人を狙う盗賊に路銀も着物も奪われ、乞食をしながら伊勢参りを果たした。病に倒れたところを乞食仲間や賭場の親分に助けられ、ようやく江戸へ戻った。野宿の最中に崖から落ちて大けがをしたことも、自伝には包み隠さず書かれている。

文政2年(1819年)、養家の娘の信と所帯を持ったが、文政5年(1822年)に再び出奔した。水戸藩の家来だと身分を偽って宿や人足をだましながら旅を続け、遠江の知人のもとに身を寄せていたところへ、江戸から甥が迎えに来た。連れ戻された小吉は座敷牢に入れられ、数え21歳から24歳までをそこで過ごしたとされる。その間の文政6年(1823年)に長男の麟太郎、のちの海舟が生まれている。

牢を出ると、父に少しは働けと言われて幕府の役を求めて回ったが、日頃の行いがたたって口はかからなかった。小吉は剣の腕に優れ、道場破りをして回った。刀剣の売買を営み、町の揉め事を収める顔役のようなこともした。あまりの不行跡に、長兄の男谷彦四郎は小吉を檻に押し込めようとしたが、兄嫁と甥の男谷信友がとりなして難を逃れた。信友はのちに幕末随一の剣客と称された人物である。知行地の村で金を出し渋られたときには、江戸から首桶を持参して切腹すると脅し、とうとう金を出させたという。

息子への期待は大きかった。麟太郎は将軍徳川家慶の子、初之丞の学友に取り立てられ、小吉はこれを出世の糸口と喜んだ。しかし初之丞は一橋家を継いでまもなく亡くなった。9歳の麟太郎が野犬に襲われて重傷を負った出来事も、『夢酔独言』が書き留めている。

天保9年(1838年)、小吉は37歳で隠居して家督を麟太郎に譲り、夢酔と号した。天保14年(1843年)には中風の発作の後遺症もあり、溜池に近い鶯谷に庵を結んで静かに暮らした。この時期に『夢酔独言』と、若いころに交わった武芸者平山行蔵の言行を記した『平子龍先生遺事』を書いた。『夢酔独言』は子孫に向けて、決して自分の真似をするなと戒めるために書かれたものである。それでいて中身は、喧嘩と放浪と遊びの半生を話し言葉のような調子で書き連ねたもので、武士の自伝としては類がない。誇張も含まれていると考えられているが、江戸の下級武士の暮らしと気風をじかに伝える史料として今も読まれている。

嘉永3年(1850年)、小吉は49歳で死んだ。3年後に黒船来航があり、無役の家に育った麟太郎は、蘭学と海軍の知識を武器に幕府の中枢へと上り、やがて江戸無血開城の交渉を担うことになる。小吉の名は、子母沢寛の小説『父子鷹』や、NHK大河ドラマ『勝海舟』(1974年)などを通じて広く知られるようになった。乱暴者でありながら情に厚く、息子の教育だけは惜しまなかった父の姿は、海舟の人柄を語るうえで欠かせないものになっている。

動画(1)

幕末のクソ野郎!勝海舟のパパはクズ道を極めてた?歴史に残る問題児「勝小吉」#剣豪武人猛将シリーズ非株式会社いつかやる勝海舟の父として知られる問題児・勝小吉の乱行ぶりを解説する
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