金栗四三
概要
日本初のオリンピックのマラソン選手。ストックホルムで途中に倒れたが、箱根駅伝の創設などで長距離走を根づかせた。
本文
金栗四三は、日本で最初にオリンピックのマラソンを走った選手であり、のちに日本マラソンの父と呼ばれた人物である。1891年8月20日、熊本県玉名郡春富村、現在の和水町に、8人きょうだいの7番目として生まれた。四三という名は、生まれたとき父が43歳だったことに由来する。幼いころは体が弱かったが、高等小学校に進むと、山坂を越える往復約12キロの通学路を毎日走って通い、これが長距離走の土台になった。
玉名中学校を出た金栗は、1910年に東京高等師範学校に入学した。校長は柔道の創始者で、日本のオリンピック参加を主導した嘉納治五郎だった。1911年、翌年のストックホルム大会に向けた予選会で、金栗は足袋をはいて走り、2時間32分45秒で優勝した。当時の世界記録を大きく上回ると報じられたが、コースの距離が正確だったかを疑う見方もある。金栗は短距離の三島弥彦とともに、日本初のオリンピック選手に選ばれた。第1回近代オリンピックから16年後のことである。
1912年のストックホルムまでは、船とシベリア鉄道で20日近くかかった。初めての海外で、白夜のために眠れず、米も手に入りにくかった。レース当日は迎えの車が来ず、競技場まで走って向かったという。その日は記録的な暑さで、出走した68人のおよそ半数が途中で棄権し、ポルトガルの選手が倒れて翌日亡くなるほど過酷なレースになった。金栗も26キロ余りの地点で日射病のため意識を失い、近くの農家で介抱された。目覚めたのは翌日の朝で、競技はとうに終わっていた。その日の日記に、彼は失敗は成功のもとであり、いつかその恥をすすぐと書いている。
帰国後の金栗は、真夏の房総の海岸で炎天下を走る耐熱練習や、厳寒のなかの耐寒練習を重ねた。1914年には熊本の医師の娘春野スヤと結婚し、同じ年に池部家の養子となったが、その後も金栗の姓で活動した。この年の秋、2時間19分20秒3の記録を出している。メダルが期待された1916年のベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止になった。1920年のアントワープ大会では40キロ近くまで5位につけながら、雨と寒さで脚を痛めて16位に終わり、1924年のパリ大会では途中で棄権した。

選手として走りながら、金栗は日本に長距離走を根づかせることに力を注いだ。1917年には、京都の三条大橋から東京まで約508キロを23区間でつなぐ東海道駅伝徒歩競走に、関東組のアンカーとして出走した。これが駅伝の始まりとされる。1920年に始まった箱根駅伝の創設にも尽力した。東京の足袋屋ハリマヤの黒坂辛作と足袋の改良に取り組み、ゴム底をつけた金栗足袋を生み出して、多くのランナーがこれをはいて走った。1919年には下関から東京まで約1200キロを20日間で走破するなど、各地を走って長距離走の魅力を説いた。ヨーロッパで女性がスポーツに親しむ姿に感銘を受け、東京府女子師範学校で教えていたころには女子の競技会を開くなど、女子体育の振興にも努めた。
1936年には、1940年に予定された東京大会の準備のために上京したが、日中戦争の激化で日本は開催を返上した。戦後は郷里の熊本で県体育会の初代会長となり、1947年には自らの名を冠した金栗賞朝日マラソンを始めた。この大会は、のちの福岡国際マラソンにつながる。1953年にはボストンマラソンの日本選手団の団長を務め、山田敬蔵が優勝している。
1967年3月、金栗はスウェーデンから、ストックホルム大会55周年の記念行事に招かれた。棄権の届けが出ていなかったため、記録上は競技中に行方不明になったままだったのである。75歳の金栗は競技場をゆっくりと走り、用意されたゴールテープを切った。場内には、タイムは54年8か月6日5時間32分20秒3、これでストックホルム大会の全日程を終了する、と告げられた。金栗は、長い道のりでした、この間に孫が10人できました、と語ったという。
晩年は玉名で過ごし、1983年11月13日に92歳で死んだ。2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』で主人公の一人として描かれ、その名は改めて広く知られた。箱根駅伝の最優秀選手に贈られる金栗四三杯に、今もその名が残っている。