平山行蔵
概要
江戸後期の幕臣・兵法家。武芸百般に通じ、質素で苛烈な鍛錬の暮らしで知られた。「文政の三蔵」の一人。
本文
平山行蔵は、江戸時代後期の幕臣で、兵法家である。名は潜、字は子龍、号は兵原など。剣術では講武実用流を称した。北方を探検した間宮林蔵、蝦夷地の調査で知られる近藤重蔵とともに、「文政の三蔵」と呼ばれた。三人の通称がいずれも「蔵」で終わることからついた呼び名である。太平の世にあって戦国の武士のような暮らしを貫いた人物として、数多くの逸話が残っている。
宝暦9年12月8日(1760年1月25日)、幕府の御家人、平山勝籌の子として江戸の四谷伊賀町に生まれた。家は伊賀組の同心で、禄は30俵2人扶持にすぎない。伊賀組は、徳川家康に仕えた伊賀者の流れをくむ下級の幕臣の組である。それでも行蔵は四谷北伊賀町(現在の新宿区)の自宅に道場を構え、門人を集めた。
学んだ武芸の幅は広い。剣術は真貫流の山田松斎に学び、のちに自ら一流を立てて忠孝真貫流と名乗り、さらに講武実用流と改めた。軍学は長沼流、槍術は大島流、柔術と居合は渋川流、砲術は武衛流をそれぞれの師に学び、水泳・馬術・弓術・棒術にも通じたという。学問の面でも、昌平黌で儒学者の古賀精里に学び、農政や土木まで修めたとされる。集めた和漢の兵書は1085部・2980巻、兵器類は362種に及んだと伝えられる。
暮らしぶりの逸話は、どれも極端である。背は低かったが、刃渡りの長い大太刀を差して歩いた。毎朝起きると長い棒を500回振り、居合の刀を200回から300回抜いた。本を読みながら欅の板を拳で打って拳を鍛え、読書に飽きると水風呂に入って眠気を払った。61歳になるまで土間に寝て、夜具を使わなかったともいう。居間には刀・槍・薙刀から大砲・鉄砲までの武具が詰め込まれ、庭は草が伸び放題だった。扶持米は俵のまま玄関に置き、玄米を精米せずに炊いて食べた。これらは門人や知人の書き残したものに拠る話で、誇張も含まれているとみられるが、周囲の目に行蔵がどう映っていたかはよく分かる。
酒は好んだ。押し入れに四斗樽を据え、冷や酒を飲み続けた。晩年に中風で体が不自由になっても、それはやめなかったという。「べらぼうめ」が口癖で、世の中が文弱に流れていくのを最後まで憤っていたと伝えられる。
行蔵の名を世に知らしめたのは、むしろ門人たちである。門人の筆頭とされる下斗米秀之進(相馬大作)は、文政4年(1821年)、南部藩と津軽藩の積年の確執から、参勤の途上の津軽藩主を待ち伏せて討とうとした。計画は事前に漏れて失敗したが、この事件は「相馬大作事件」として講談や芝居で広く語られた。秀之進は捕らえられ、翌年処刑されている。ほかに吉里信武ら四人が「平山門の四天王」と呼ばれた。
幕臣の勝小吉も行蔵に学び、師の思い出を記した『平子龍先生遺事』を残している。小吉は勝海舟の父である。荒っぽい無頼の旗本として知られた小吉が、この師には深く心服していた。
行蔵は文政11年12月24日(1829年1月29日)に没した。数え年で70歳。四谷の永昌寺に葬られた。著書に剣術を論じた『剣説』『剣微』がある。
行蔵が生きた18世紀末から19世紀初めは、ロシアの船が北の海に現れ、幕府が海防に頭を悩ませはじめた時期にあたる。行蔵の晩年の文政8年(1825年)には、幕府は異国船打払令を出している。行蔵と並べて呼ばれた間宮林蔵と近藤重蔵は、どちらも北方の調査で名を残した。近藤重蔵は寛政10年(1798年)に択捉島に渡り、「大日本恵登呂府」と記した標柱を立てている。行蔵の苛烈な尚武の暮らしは、奇行として笑われる一方で、泰平に慣れた武士への批判として受け取られ、のちの幕末の武士たちにも語り継がれた。