人物

エンリケ4世

Enrique IV de Castilla
AD1425年1月5日 – AD1474年12月11日(享年49)
カスティーリャ王国重要度 2

概要

カスティーリャ王。「不能王」と呼ばれ、娘の血筋を疑われて貴族と争い、異母妹イサベルを後継に認めた。

本文

エンリケ4世は1425年、カスティーリャ王フアン2世とアラゴン王家出身の妃マリアの子として、バリャドリッドに生まれた。そのころのカスティーリャは寵臣アルバロ・デ・ルナが実権を握り、王子の教育や遊び相手まで決めていた。幼なじみのフアン・パチェコはのちにエンリケの最も近い側近となる。貴族、寵臣、アラゴンの王子たちが権力を奪い合う宮廷で、エンリケは育った。1445年には第一次オルメドの戦いでアラゴンの王子たちを破っている。

1454年7月に父が死ぬと、エンリケは王位に就いた。ポルトガルとの同盟を固め、南のイスラーム国家グラナダへの遠征を始めたが、会戦を避けて略奪を繰り返す消耗戦は、貴族にも民衆にも人気がなかった。政治の実権はパチェコとその弟に握られ、王は対抗するためにベルトラン・デ・ラ・クエバらの新しい寵臣を取り立てた。

「不能王」というあだ名は、最初の結婚から来ている。エンリケは1440年、15歳でナバラの王女ブランカと結婚したが、13年たっても夫婦の交わりがなかった。1453年、セゴビアの司教は、王は呪いのせいでこの妃とだけ交われない、という理由で結婚を無効とした。セゴビアの娼婦たちが王と関係を持ったと証言し、この妃以外とは問題がないことの裏付けにされた。教皇ニコラウス5世もこの判断を認め、エンリケは1455年、ポルトガル王の妹フアナと再婚した。

1462年、王妃フアナは娘を産み、同じフアナと名付けられた。王女は王位継承者として誓いを受けたが、宮廷から追われたパチェコらは貴族の同盟を作り直し、娘の父親は王ではなく寵臣ベルトラン・デ・ラ・クエバだと言いふらした。王女は「ラ・ベルトラネハ」(ベルトランの娘)と呼ばれるようになる。1464年、貴族たちに迫られた王は、娘ではなく異母弟アルフォンソを後継者と認めさせられた。

エンリケがまもなくこの約束を翻すと、貴族たちは1465年、アビラの城外で王の人形を玉座から引きずり下ろす儀式を行い、アルフォンソを王に立てた。「アビラの茶番」と呼ばれる。カスティーリャは内戦になり、1467年の第二次オルメドの戦いは決着がつかなかった。ところが1468年、アルフォンソは14歳で急死する。疫病によるとみられるが、毒殺説もある。

反乱側は、アルフォンソの姉で王の異母妹にあたるイサベル1世を旗頭に迎えた。エンリケはトロス・デ・ギサンドでの交渉で、娘フアナを継承から外し、イサベルを後継者と認めた。その条件の一つに、イサベルの結婚は王が決めるというものがあったが、イサベルは翌1469年、兄に諮らずにアラゴンの王子フェルナンドと結婚した。エンリケはその後も娘の権利を取り戻そうとしたが、うまくいかなかった。

1474年12月、エンリケは死去し、グアダルーペの修道院で母の傍らに葬られた。死後、王位をめぐってイサベルと、ポルトガルの後ろ盾を得たフアナとの間で戦争が起きる。1476年のトロの戦いを経てイサベルが勝ち、アラゴンと結んだ新しい王権が、レコンキスタの完了やコロンブスの到達へと進んでいく。エンリケの治世は、その前の弱い王の時代として語られてきた。

レコンキスタの完了に関わる図版:La Rendición de Granada - Pradilla
レコンキスタの完了Wikimedia Commons Francisco Pradilla y Ortiz · Public domain

ただ、エンリケについての年代記の多くは、イサベルの治世に書かれたり書き改められたりしている。フアナを非嫡出として退けたいイサベルの側に都合のよい記録であり、「不能」の評判もそのまま信じることはできない。娼婦たちの証言もある。フアナの本当の父が誰だったのかは、確かな史料がなく答えが出ない。容姿については、背が高く金髪で体格がよく、子どものころに鼻を折ったため、見る人によって恐ろしい獅子にも愚かな猿にも見える顔だった、と伝えられる。

動画(1)

信じられないあだ名!あの偉人は『絹を履いた糞』って呼ばれていた!?非株式会社いつかやるあだ名当てで「不能王」と呼ばれた王として出す
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