濱口梧陵
概要
紀州広村出身の醤油商人。安政南海地震の津波の夜、稲むらに火を放って村人を高台へ導き、私財で堤防を築いた。物語『稲むらの火』のモデル。
本文
濱口梧陵は、紀伊国有田郡の広村(いまの和歌山県広川町)に生まれた商人である。安政元年(1854年)の津波の夜、田の稲むらに火をつけて逃げ道を照らし、村人を高台へ導いた。その後、私財を投じて村に大きな堤防を築いた。のちに物語『稲むらの火』のモデルとして広く知られるようになる。梧陵は雅号で、名は成則といった。
文政3年6月15日(1820年7月24日)、紀州の醤油商人である濱口家の分家に、長男として生まれた。12歳で本家の濱口儀兵衛家の養子となり、下総の銚子へ移った。濱口儀兵衛家は銚子で醤油を造る家で、いまのヤマサ醤油である。紀州の醤油づくりは江戸時代に房総へ渡り、関東の醤油の土台になった(醤油)。
若いころから見聞を広め、開国を説くようになった。海外へ学びに行くことを願い出たが、開国前の幕府には認められなかった。30歳のころ故郷の広村に戻り、1852年には仲間とともに稽古場の耐久舎を開いて若者の教育を始めた。この学舎はいまの和歌山県立耐久高等学校につながっている。1854年ごろ、七代目の濱口儀兵衛を継いだ。
安政元年11月4日、東海沖で大地震が起き、翌5日の夕方には紀伊半島沖を震源とする安政南海地震が起きた。旧暦11月5日は、西暦では1854年12月24日にあたる。広村は海に面した村で、夜になって大きな津波が押し寄せた。梧陵は、自分の田に積まれていた稲むら(刈り取った稲の束の山)に火をつけさせた。闇の中で燃える火を目印に、村人は高台の広八幡神社へ逃げることができた。村人の9割以上が助かり、死者は30人だった。
梧陵の働きは、その後のほうが大きかった。壊れた橋を直し、家を失った人々のための仕事を作った。そして約4年をかけ、当時としては最大級の堤防を村の海岸に築いた。費やした4665両は、すべて梧陵の私財だった。荒れた村から人が出ていくのを防ぐ仕事を与えると同時に、次の津波に備える工事でもあった。梧陵は、住民百世の安堵を図る、という言葉を残している。
この広村堤防が試されたのは、完成から88年後の1946年だった。昭和南海地震の津波が広村を襲ったとき、堤防が被害を減らしたとされる。
梧陵は医学の後援者でもあった。銚子で医者の関寛斎と知り合い、江戸の種痘所でコレラの予防を学ばせ、のちに長崎への留学の費用も出した。1859年、火事で焼けた江戸の種痘所(のちの東京大学医学部)を再開するため、300両を寄付している。
明治維新の前後には、商人の身分のまま紀州藩の勘定奉行に抜擢され、藩の改革を担った。1871年には大久保利通に請われて、郵便を受け持つ駅逓頭に就いたが、次官の前島密とうまくいかず、半年足らずで辞めた。1880年には初代の和歌山県会議長となった。1885年、若いころからの夢だった世界旅行に出たが、旅先のアメリカ・ニューヨークで病に倒れ、4月21日に死んだ。満64歳だった。
梧陵の話を世界に広めたのは小泉八雲である。八雲は明治の半ばに、梧陵をモデルにした浜口五兵衛を主人公に、英語で「生ける神」という作品を書いた。これをもとに、地元の教員だった中井常蔵が書いた『稲むらの火』が、1937年から小学校の国語の教科書に載った。物語では、地震の揺れに異変を感じた五兵衛が、津波が来る前に稲むらに火を放ち、消火に駆け上がってきた村人を救ったことになっている。史実の梧陵が火をつけたのは津波が来た後で、逃げ道を示すためだった。
2004年のスマトラ沖地震と津波の後、この物語と梧陵の事績はふたたび注目された。2015年、国連総会は安政南海地震の日にちなんで、11月5日を世界津波の日と定めた。広川町では毎年11月に津浪祭が開かれ、梧陵の遺徳をしのぶとともに、災害の記憶を伝えている。