ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
概要
戦で失った右手に鉄の義手を付けて戦い続けた帝国騎士。私闘と略奪に生き、ゲーテの戯曲で英雄として名を残した。
所属
神聖ローマ帝国本文
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは、16世紀前半の神聖ローマ帝国で戦いに明け暮れた帝国騎士である。1480年ごろ、ドイツ南西部フランケン地方の騎士の家に生まれた。帝国騎士とは、領邦君主を介さず皇帝に直属する小領主のことで、わずかな所領しか持たない者が多かった。ゲッツが生きたのは、火砲と傭兵の時代が来て、騎士という身分が居場所を失っていく時代だった。
1497年、ゲッツはブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯フリードリヒに仕えた。翌1498年には皇帝マクシミリアン1世の軍に加わってブルゴーニュやロレーヌで戦い、1499年のシュヴァーベン戦争にも出た。1500年ごろには自ら傭兵の一隊を率い、諸侯に腕を売るようになった。
転機は1504年のランツフート継承戦争である。バイエルン公アルブレヒト4世の側で戦ったゲッツは、ランツフートの包囲戦で砲弾に自分の剣を打ちつけられ、右手を手首から失った。それでも彼は戦いをやめず、鉄の義手を作らせた。義手は二つ伝わっている。一つ目は簡素なもので、土地の鍛冶屋と馬具職人が作ったとされる。二つ目ははるかに精巧で、指の関節を動かして盾や手綱を握り、羽根ペンを持つこともできたという。二つとも、今もヤクストハウゼン城に残る。「鉄腕のゲッツ」の異名はここから生まれた。
中世のドイツでは、争いを実力で解決するフェーデ(私闘)が騎士の権利とされてきた。1495年のヴォルムス帝国議会で永久ラント平和令が出され、フェーデは禁じられたが、ゲッツはその後も自分の名で15件ほどのフェーデを戦ったと自伝に書いている。相手はケルンやウルム、アウクスブルクなどの都市、バンベルク司教、シュヴァーベン同盟にまで及んだ。実態は、言いがかりをつけて商人を襲い、身代金を取る強盗に近いものも多かった。1512年にはニュルンベルクとの争いのなかで、ライプツィヒの大市から帰る商人の一行をフォルヒハイム近くで襲い、皇帝から帝国追放刑を受けた。解かれたのは1514年、1万4千グルデンという大金を払ってからである。1516年にはマインツ大司教とのフェーデでヴァルデック伯を捕らえ、8400グルデンの身代金を取って、1518年に再び追放刑を受けた。
1519年、ゲッツはヴュルテンベルク公ウルリヒに仕え、シュヴァーベン同盟との戦争でメックミュールの町を守った。弾薬と食料が尽きて降伏したが、降伏の条件に反して捕らえられ、彼にたびたび襲われてきたハイルブロンの市民に引き渡された。仲間の騎士フルンツベルクとジッキンゲンの働きかけで釈放されたのは1522年で、2000グルデンを払い、同盟に復讐しないと誓わされた。降伏を勧められたゲッツが相手の将について、尻でもなめろと言い放ったという逸話は、のちにゲーテの戯曲で有名になり、ドイツでこの卑語を遠回しに言う言い方として名を残した。
1525年、ドイツ農民戦争が起きると、ゲッツはオーデンヴァルトの農民軍の指導者に担がれた。自伝によれば、ほかに道がなかったことと、反乱の行き過ぎを抑えたかったことが理由で、農民の大義に心から賛同していたわけではなかった。実際には暴走を止められず、ひと月ほどで指揮を捨てて自分の城に戻った。反乱が鎮圧されると責任を問われ、1526年に帝室裁判所で無罪とされたものの、1528年にはシュヴァーベン同盟に通行の安全を約束されてアウクスブルクへ呼び出され、そのまま捕らえられた。1530年に釈放されたが、1517年に買い取っていたホルンベルク城の周辺から出ないと誓わされた。
誓約を解いたのは皇帝カール5世で、1540年のことである。60代のゲッツは1542年、スレイマン1世のオスマン帝国と戦うハンガリー遠征に加わり、1544年には皇帝軍のフランス侵攻にも従った。その後はホルンベルク城に戻って穏やかに暮らし、1562年7月23日に81歳か82歳で死んだ。二度結婚し、3人の娘と7人の息子を残した。
ゲッツは晩年に自伝を書き残した。1731年に出版されたこの自伝をもとに、若き日のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが1773年に戯曲『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を発表した。戯曲は彼を、新しい時代の権力に押しつぶされる剛直な騎士として描き、疾風怒濤と呼ばれる文学運動の代表作になった。史実の彼は略奪と身代金で稼いだ荒くれ者だったが、物語の力で、自由を求める騎士の象徴へと姿を変えた。日本では、鉄の義手で戦う姿から、漫画『ベルセルク』の主人公を連想する人も多い。