義農作兵衛
概要
伊予松山藩筒井村の農民。享保の大飢饉で翌年まく麦の種に手をつけずに餓死し、「義農」とたたえられた。
本文
作兵衛は、江戸時代の中ごろ、伊予国松山藩の筒井村(いまの愛媛県伊予郡松前町)に生きた農民である。1732年の享保の大飢饉のとき、翌年まく麦の種を一粒も口にせず、種を残したまま餓死した。その心がけをたたえて「義農作兵衛」と呼ばれ、いまも郷土の偉人として語り継がれている。
1688年(貞享5年)、筒井村の貧しい農民、作平とツルの子として生まれた。1711年にタマと結婚し、長男の作市と長女のカメが生まれた。こつこつと働いて、40歳ごろまでには自分の田畑を3反あまり、借りた田畑を1反半ほど持つまでになったとされる。豊かとはいえないが、一家を支えるだけの土地を自分の手で広げた働き者だった。1731年には妻のタマを病で亡くした。
1732年(享保17年)、西日本は長雨と洪水に見舞われ、さらにウンカの大群が稲を食い荒らした。享保の飢饉と打ちこわしである。徳川吉宗が享保の改革を進めていたさなかで、西国の村々では米も麦も尽きた。西日本全体で1万人を超える餓死者が出たとされ、幕府は西国へ米を送り、蓄えの放出を命じたが、救いは行き渡らなかった。松山藩はとりわけ被害が大きかったとされる。作兵衛の家でも、6月に父の作平が、8月に長男の作市が死んだ。
飢えが極まると、来年のためにとっておいた麦の種を食べてしまう者も出てきた。種を食べれば今日は生き延びられるが、来年まくものがなくなる。作兵衛は「一粒の麦の種が、来年には百粒にも千粒にもなる。自分がわずかな日を生きるために食べてしまっては、どうして来年の種ができようか」と言って、決して手をつけなかったと伝えられる。種の袋を枕にして死んでいたという話もよく語られる。9月23日、作兵衛は種を残して死んだ。数えで45歳だった。翌10月には娘のカメも死んでいる。
村人たちは、作兵衛の残した麦の種を一粒ずつ大切にまいて、翌年を乗り切ったという。話を聞いた松山藩は年貢を軽くしたり免じたりし、その年の12月には作兵衛の墓を建てるよう命じた。
作兵衛の名が「義農」として広まったのは、死後40年あまりたった1776年(安永5年)である。松山藩の8代藩主松平定静が、作兵衛の行いを後の世に伝えるために「義農」とたたえ、碑を建てた。明治に入ると1881年に義農神社が建てられ、1913年には義農会が頌徳碑を建てた。作兵衛は、同じ伊予の下見吉十郎、松浦宗案とともに「伊予の三農」の一人にも数えられる。下見吉十郎は薩摩から伊予の島々にサツマイモを伝えた人とされ、甘藷は飢饉に強い作物として西日本に広まっていく。享保の飢饉は、のちに青木昆陽がサツマイモの栽培を幕府に勧めるきっかけの一つにもなった。俳人の高浜虚子も義農神社を訪れ、「義農名は作兵衛と申し国の秋」と詠んで新聞「日本」に寄せている。
ただし、作兵衛の最期の言葉や、種の袋を枕にしていたという場面は、のちの顕彰のなかで語り継がれてきたもので、その場で書き留められた記録があるわけではない。藩が作兵衛をたたえたのは、飢饉に耐えて田畑を守る農民の手本を示したいという思いもあったと考えられる。それでも、飢饉の年に家族を次々に失いながら、自分の命よりも村の翌年を選んだ一人の農民の話は、飢饉がどれほど人々を追い詰めたかを伝えている。
義農神社の境内には作兵衛の墓があり、松前町も郷土の史跡として紹介している。墓標には、天を敬う者は天から恵まれ、地に親しむ者は地から与えられ、人を愛する者は人から報われる、という意味の言葉が刻まれている。神社では毎年4月23日に義農祭が開かれている。地元の小学校では1981年に「義農太鼓」が始まり、子どもたちの手で受け継がれている。教科書に載る大名や学者ではない一人の村人の名が、300年近くたったいまも土地に生きているのである。