フランソワ・マッカンダル
概要
フランス領サン=ドマング(現ハイチ)の逃亡奴隷の指導者。毒の陰謀の首謀者として火刑にされ、伝説となった。
本文
フランソワ・マッカンダルは、18世紀半ばのフランス領サン=ドマング(現在のハイチ)で、逃亡奴隷(マルーン)の指導者・宗教的指導者として知られた人物である。1758年、白人を毒殺する陰謀の首謀者として火刑に処された。その死は伝説となり、30年あまりのちのハイチ革命の先触れとして語り継がれている。

18世紀のサン=ドマングは、砂糖とコーヒーで世界でもっとも富を生む植民地の一つだった。その富を支えたのは、大西洋奴隷貿易でアフリカから連れてこられた数十万人の奴隷である。過酷な労働で死ぬ者が多く、植民地はたえず新しい奴隷を買い入れた。フランス革命の始まった1789年には、奴隷が約50万人いたのに対し、白人は約3万人にすぎなかったとされる。山や森へ逃れた奴隷はマルーンと呼ばれ、集団を作って暮らし、ときに農園を襲った。
マッカンダルの生まれははっきりしない。西アフリカか中部アフリカで生まれ、若くして奴隷として売られたとされる。古い記録はアトラス山脈の出身とし、アラビア語をよく解したという。取り調べの際、イスラムの信仰告白を何度も唱え、その意味をフランス人に訳してみせたとも伝えられる。一方で、名前の語源からカメルーン沿岸の出身とみる研究者もいる。サトウキビの圧搾機に右腕を挟まれて失ったと言われるが、これも推測の域を出ない。
1748年ごろ、辺地の仕事に回されたのをきっかけに逃亡し、マルーンとして暮らし始めた。彼はさまざまな材料を詰めた護符の袋を作って奴隷たちに配り、それを作り清める儀式を通じて、農園の奴隷にまで広がる大きな宗教的な共同体を作り上げた。のちのヴードゥー(ヴォドゥ)の祭司の先駆けとみなされることも多い。アフリカのさまざまな土地から連れてこられ、言葉も信仰も違った奴隷たちを、共通の儀式で結びつけたことが、彼の力の源だった。
1750年代、植民地では白人や家畜が次々と死に、奴隷が毒を盛っているという恐怖が広がっていた。拷問を受けた奴隷たちが多くの「共犯者」の名を挙げ、白人の毒殺を企む大きな組織があると自白した。1758年、ある農園の祝いの席に現れたマッカンダルは、居合わせた者に毒使いがいると通報されて捕らえられた。裁判はわずか数日で終わり、彼は毒殺を最後まで認めないまま、1月20日、町の広場で火あぶりにされた。
処刑の場には多くの奴隷が集められていた。火が回ったとき、彼が一瞬逃れかけたという記録がいくつかある。結局は取り押さえられて焼かれたが、見ていた黒人たちの中には、彼が炎の中から羽の生えた獣に姿を変えて飛び去った、縄をすり抜けて逃げおおせた、と信じる者が多かった。マッカンダルは死なず、いつか戻ってくるという話が、農園から農園へと広まっていった。
マッカンダルについて確かに分かっていることは少ない。処刑のあと、白人の皆殺しを企て、島じゅうのマルーンを束ねて植民地の乗っ取りを狙った巨大な組織の首領だったという話が雑誌などで膨らまされたが、多くは確かめられない。近年は、毒殺そのものを疑う研究も出ている。彼の死後まもなく、医師たちは家畜と人の大量死を、土の中の炭疽菌による病気ではないかと推測していた。それでも彼は、1791年8月、北部の森でのヴードゥーの儀式を合図に始まった奴隷の大反乱と、トゥサン・ルヴェルチュールらが率いたハイチの独立へ続く抵抗の象徴となった。1949年に出たキューバの作家アレホ・カルペンティエルの小説『この世の王国』は、炎から飛び去る彼の伝説を冒頭近くの山場に据えた。ほかにも多くの小説や絵画に描かれ、ハイチの貨幣にもその姿が刻まれている。