人物

エーリヒ・ハルトマン

Erich Hartmann
AD1922年4月19日 – AD1993年9月20日(享年71)
ドイツ国重要度 2

概要

第二次世界大戦のドイツ空軍の戦闘機乗り。東部戦線で352機を撃墜し、史上最多の撃墜記録を持つ。

本文

エーリヒ・ハルトマンは1922年、ドイツ南部ヴュルテンベルクのヴァイスザッハで医者の息子として生まれた。第一次世界大戦に敗れたあとの困窮を避けて、父は中国に渡って開業し、一家は1929年に現地で外国人排斥の暴動が起きるまでそこで暮らした。帰国後、母が趣味で小型機の操縦を始め、グライダーのクラブまで作ったため、少年は早くから空に親しんだ。14歳でグライダーの資格を取り、翌年には教官の資格も得ている。高校で知り合ったウルスラ・ペーチュとは生涯連れ添った。童顔だったことから、仲間には「ブービ(坊や)」と呼ばれた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1940年10月に空軍へ入隊した。射撃の腕は訓練から抜きんでていたが、規律になじまず、昇進は遅れがちだった。1942年10月、東部戦線の第52戦闘航空団に配属される。独ソ戦の始まりから1年あまり、ソ連との空の戦いはまだ激しく続いていた。初出撃では敵と味方を取り違えて逃げ回り、燃料切れで不時着して飛行禁止を言い渡された。11月5日に初めて撃墜したIl-2攻撃機は、近づきすぎたために破片を浴び、自分も不時着している。

その後はベテランの僚機を務めながら戦い方を磨いた。編み出したのは「観察、決定、攻撃、離脱」という手順である。敵を見つけてもすぐには飛び込まず、こちらに気づいていない相手を選び、ぎりぎりまで近づいて短く撃ち、すぐに離れる。乱戦には加わらない。旋回しながら撃ち合う格闘戦は、勝っても周りの敵に狙われやすい。ハルトマンは自分の腕を過信せず、不利だと思えば攻撃をやめて離れた。中隊を率いるようになると、編隊を二つに分け、一方が攻撃するあいだもう一方を上空に残して見張らせ、交互に攻めさせた。彼の中隊は戦果が大きいうえに帰還率も高く、周囲から一目置かれた。1943年夏のクルスクの戦いで撃墜数を一気に伸ばし、8月にはソ連側に不時着して捕らえられたが、隙を見て逃げ出し、歩いて味方の線へ戻った。9月に中隊長となり、同月のうちに100機に達した。

クルスクの戦いに関わる図版:Battle of Kursk (map)
クルスクの戦いWikimedia Commons Public domain

機首に黒いチューリップ模様を描いていた時期があり、ソ連の操縦士はこの機体を見ると戦いを避けたという。そのために編隊全体の戦果が落ち、模様を消したと伝えられる。1944年8月24日に300機を超え、ドイツ軍で最高位の勲章の一つ、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受けた。ジェット戦闘機Me262の部隊へ移る話もあったが、短い訓練の後に元の部隊へ戻っている。

1945年5月8日、ドイツが降伏したその日に最後の1機を落とした。出撃は1405回、撃墜は352機、自分が撃ち落とされたのは16回に及ぶが、本人は一度も負傷していない。僚機を一機も戦死させなかったことを、本人は撃墜数よりも誇りにしたとされる。もっとも、東部戦線では出撃の回数が多く、不時着しても陸路で戻れたため、多くのドイツ人操縦士が百機を超えた。数字の大きさにはそうした戦場の事情も効いている。

戦後は部下や避難民を見捨てずに行動を共にしてアメリカ軍に投降したが、取り決めによりソ連へ引き渡された。戦犯として25年の重労働の判決を受け、10年半を収容所で過ごす。抑留中に長男は幼くして死に、父も世を去った。1955年、アデナウアー首相のモスクワ訪問で抑留者の釈放が決まり、ようやく帰国した。

帰国後は新しい西ドイツの連邦空軍に入り、最初のジェット戦闘機部隊の司令を務めた。しかしF-104戦闘機の採用に強く反対して上層部と対立し、1970年に48歳で退役させられた。退役後は民間の飛行の仕事などをしながら故郷の近くで暮らし、1993年9月、ヴァイル・イム・シェーンブーフで71歳で亡くなった。第二次世界大戦の空で最も多くの敵機を落とした記録は、ジェット機の時代になったいま、もう破られることはないと言われている。

動画(1)

敵なし!歴史上の無敵すぎる男3選【撃墜王・怪力無双の満延・真の幕末最強】歴史ネタ解説非株式会社いつかやる三選の一つ目に、352機を落とした撃墜王の戦い方を語る
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