人物

ダリヤ・サルトゥイコヴァ

Darya Saltykova
1730年 – 1801年(享年71・推定)
ロシア帝国重要度 2

概要

モスクワの女地主。自分の農奴を次々に拷問して死なせ、エカチェリーナ2世のもとで裁かれた。「サルトゥイチハ」の名で知られる。

所属

ロシア帝国

本文

ダリヤ・ニコラエヴナ・サルトゥイコヴァは1730年、ロシアの古い富裕な貴族イワノフ家に生まれた。名門サルトゥイコフ家のグレブ・サルトゥイコフに嫁ぎ、二人の息子フョードルとニコライをもうけたが、1750年代の半ば、二十代の半ばで夫を亡くした。モスクワの屋敷と周辺の領地、そして数百人の農奴が彼女の手に残った。ロシアではのちに「サルトゥイチハ」という蔑みを込めた呼び名で語られる。

18世紀のロシアの農奴は、領主の財産として売り買いされ、領主の罰に逆らう手段をほとんど持たなかった。未亡人となったサルトゥイコヴァは、掃除や洗濯の出来が悪いといった理由で、使用人の農奴を棒や鞭で打ち、熱湯を浴びせ、髪を引き抜くといった暴行を繰り返したとされる。犠牲になったのは主に若い女性の農奴だった。死者が出ても、地元の役人は届け出を握りつぶし、訴えた農奴のほうが罰せられることさえあった。彼女が宮廷の有力者とつながっていたためである。

状況が変わったのは1762年である。妻を殺された二人の農奴が逃げ出し、即位したばかりのエカチェリーナ2世に直接訴え状を届けた。夫ピョートル3世を退けて帝位に就いたエカチェリーナは、法に従う統治者であることを示そうとしており、この訴えを取り上げて公に裁くことにした。サルトゥイコヴァは同じ年に捕らえられた。女帝にとっては、貴族であっても法の外にはいないことを示す機会だった。同時に、名門の一族を敵に回す危うさもはらんでいた。

取り調べは6年に及んだ。司法参議会は多くの証人を呼び、領地の記録を調べ上げた。疑わしい死は138件にのぼり、その大半が彼女の仕業とされた。犠牲者の多くは、屋敷で働かされていた若い女性たちだった。最終的に有罪と認められたのは、38人の農奴を打ち殺した罪である。彼女は最後まで罪を認めなかったとされる。愛人だった測量技師ニコライ・チュッチェフが別の女性と結婚しようとしたとき、その家を焼き払わせようとしたという話も伝えられている。

エカチェリーナは処罰に迷った。ロシアでは1754年から死刑が事実上停止されており、また帝位を固めるためには貴族の支持が欠かせなかった。1768年、サルトゥイコヴァは貴族の身分を剥奪され、父や夫の姓を名乗ることも禁じられたうえで、モスクワの広場で「この女は人を拷問し殺した」と書いた札を首にかけて、1時間さらし台に立たされた。見物に大勢の群衆が集まったという。公の場で辱めを受けさせることが、死刑の代わりに女帝が選んだ罰だった。その後、モスクワのイワノフスキー修道院の地下牢に終身閉じ込められた。手を貸した使用人たちは鞭打ちと流刑を受けた。

地下牢での年月は10年以上に及び、のちに修道院の別の建物へ移されたが、自由になることはなかった。1801年に死に、モスクワのドンスコイ修道院の一族の墓に葬られた。

サルトゥイコヴァの事件は、領主が農奴の生死まで握っていた体制のゆがみを示す出来事として、ロシア史で繰り返し語られてきた。裁かれたのは、被害者の家族が女帝に直訴するという異例の道が開けたからであり、同じような暴行が表に出ないまま終わった例は多かったと考えられている。数年後にはプガチョフの乱が起き、農奴の怒りは大きな反乱となって噴き出した。農奴制そのものが廃止されるのは、1861年の農奴解放令を待たなければならない。ハンガリーの「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトとよく比べられるが、バートリの罪状には史実をめぐる議論があるのに対し、サルトゥイコヴァの件は裁判の記録が残っている。2022年には、彼女の生涯をもとにしたロシアのドラマも作られた。

動画(1)

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