クラレンス・バーズアイ
概要
ニューヨーク州の生まれ。学費が続かずアマースト大学を中退し、農務省の生物調査員になった。1912年からラブラドルで毛皮を商い、そこで先住民の凍結の方法を見た。帰国後、二枚の金属板で挟む急速冷凍装置を作り、1924年に会社を興す。1929年、それをポストラム社に2,200万ドルで売った。生涯に約300の特許を取っている。捕鯨用の銛、赤外線ランプ、製紙用のパルプ、そして電球。晩年は心臓を病み、六十九歳で死んだ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
急速冷凍AD1930年 · 作った本文
クラレンス・フランク・バーズアイは1886年12月9日、ニューヨークのブルックリンに生まれた。父は弁護士で、子だくさんの家だった。「鳥の目」という変わった姓には、先祖が女王の前で矢を放ち、鳥の目を射抜いて名を賜ったという家の言い伝えがあり、本人も面白がってよく話したが、裏づけはない。

幼いころから生き物に夢中で、10代で剥製作りの通信講座を受け、狩猟の雑誌に投稿するほどだった。1908年にアマースト大学に入ったが、父の仕事が傾き、学費が続かなくなった。彼は学費を稼ぐため、捕まえたネズミを大学の研究室に、カエルを遺伝学者に売った。それでも足りず、1910年に中退した。
それからの数年、彼はアメリカ農務省の調査員として西部を歩いた。コヨーテの生態を調べ、モンタナではロッキー山紅斑熱を運ぶダニとその宿主の動物を集めた。危険な仕事で、同じ病の調査に関わった研究者には感染して死んだ人もいる。

1912年、彼はカナダの北東の果て、ラブラドルに渡った。毛皮の取引で一旗揚げようとしたのである。この地での数年が、彼の人生を決めた。冬には気温が氷点下40度近くまで下がる。地元のイヌイットの人々は、釣り上げた魚を氷の上に置き、凍てつく風の中で一瞬のうちに凍らせていた。何か月もたってから解かして料理すると、その魚は獲れたてとほとんど変わらない味がした。一方、アメリカの町で売られていた冷凍の食べ物は、まずいことで有名だった。
違いは凍らせる速さにある、と彼は考えた。ゆっくり凍らせると、細胞の中や周りに大きな氷の結晶が育ち、細胞の膜を突き破る。解かすと水分と一緒にうま味が流れ出し、身はぐずぐずになる。一瞬で凍らせれば、結晶は小さいままで細胞は壊れない。1915年に結婚した妻エレノアも、生まれて間もない息子を連れてラブラドルに来て、彼とともに冬を過ごしている。
アメリカに戻った彼は、ラブラドルの寒風を機械で再現しようとした。最初の会社は1922年に作ったが、すぐに行き詰まった。1924年、漁港の町マサチューセッツ州グロスターに新しい会社を興し、強く冷やした2枚の金属の板のあいだに、平たい箱に詰めた魚や肉を挟んで、両面から一気に凍らせる装置を作った。箱の形のまま凍るので、運ぶにも店に並べるにも都合がよかった。
1929年、彼は会社と特許を、のちのゼネラル・フーヅとなる食品会社などに2200万ドルで売った。翌1930年3月、マサチューセッツ州スプリングフィールドの店で、彼の名を冠した冷凍食品が初めて一般の客に売り出された(急速冷凍)。ただ、広く家庭に届くまでには時間がかかった。食料品店には冷凍の陳列棚がなく、家庭の冷蔵庫には冷凍室がほとんどなかったからである。会社は店に冷凍棚を貸し出し、運ぶための冷凍貨車を用意した。冷凍食品が日常の食卓のものになるのは、第二次世界大戦の後のことである。氷を船で運んだ時代(天然氷の交易)から、肉を冷やして海を渡らせた冷蔵船(冷蔵船)を経て、食べ物を冷やす技術はここで家庭の台所にまで入った。
会社を売ったあとも、彼は研究部門に残って改良を続け、さらにまったく別の分野にも手を広げた。料理を温めておく赤外線のランプ、鯨を電気で素早く仕留める銛、そしてサトウキビの搾りかすから紙を作る方法。生涯に取った特許は300件近くにのぼる。最後の事業はこの紙づくりで、彼は南米ペルーに渡って工場を立ち上げようとしたが、高地での仕事で体を壊した。
自分の唯一の才能は、ひどくたくさんのことに、ひどく強い興味を持つことだ、という趣旨のことを彼は語っている。食べることにもその好奇心は及び、ラブラドルや旅先で、スカンク、ジャコウネズミ、イグアナ、鯨などを試しては、その味を書き残した。
1956年10月7日、ペルーから病んで戻って間もなく、ニューヨークのホテルで心臓の発作のため死んだ。69歳だった。
彼の名は、いまも冷凍食品の商標としてスーパーの冷凍棚に並んでいる。速く凍らせれば結晶が小さく、味が守られる。冷凍の技術がどれほど進んでも、その原理は変わっていない。彼はそれを研究室ではなく、ラブラドルの氷の上で、土地の人々の暮らしから学んだのである。