人物

アントナン・カレーム

Marie-Antoine Carême
1784年 – AD1833年1月12日(享年49・推定)
フランス重要度 2

概要

貧しい生まれから皇帝や王の料理長となった19世紀初めの料理人。飾り菓子と著作でフランス料理を体系化した。

本文

アントナン・カレームは、19世紀初めのフランスで宮廷や大貴族の宴を取り仕切った料理人である。本名はマリー=アントワーヌ・カレーム。1784年6月8日にパリで生まれたとされるが、生年には1783年とする説もある。父は建設の仕事をしていた職人で、子だくさんの貧しい家だった。1789年に始まった革命でパリの建築工事が止まると、一家の暮らしはいっそう苦しくなった。

カレーム自身の回想によれば、1792年ごろ、父は彼を家から連れ出し、自分を引き取ってくれる家を探せと言って一人で送り出した。少年は安食堂に住み込んで働き始めた。ただし近年の伝記作家は、この話を脚色とみて、家族が食堂の主人に預けただけではないかと考えている。

足どりが確かになるのは1798年からである。カレームはパレ・ロワイヤルに近いヴィヴィエンヌ通りで、名高い菓子職人シルヴァン・バイイに弟子入りした。生地を何度も折り込んで焼くパイ生地の扱いに抜きんでて、のちにヴォロヴァンやミルフィーユと結びつけて語られるようになる。バイイは週に二度、午後の休みを与え、カレームは向かいの王立図書館に通って、各国の料理書と、もう一つの情熱だった建築の本を読みあさった。そこから生まれたのが、砂糖や生地で古代の神殿やピラミッド、中国の塔などをかたどった飾り菓子(ピエスモンテ)である。店の窓に飾られたその作品は評判を呼んだ。美術は五つあり、その主要な一つが菓子であるという言葉は、彼のものとして伝えられている。

やがて別の菓子職人の店を経て、1803年にはラ・ペ通りに自分の店を開いた。同じころから1814年まで、外務大臣タレーランの館の厨房で菓子の長を務め、料理長のもとで料理全般を学んだ。タレーランは食卓を外交の武器とした人物で、カレームに、同じ料理を一度も出さず、季節の食材だけで1年分の献立を組ませたと伝えられる。1810年のナポレオン・ボナパルトとマリー=ルイーズの婚礼の祝宴にも腕を振るった。

1814年、ナポレオンが敗れて連合軍がパリに入ると、タレーランはロシア皇帝アレクサンドル1世を自邸に迎え、カレームの料理でもてなした。皇帝はのちにエリゼ宮に移るときカレームを料理長に望み、翌1815年、ワーテルローの戦いの後にパリを再訪したときも彼を呼んだ。シャロン=シュル=マルヌでの大閲兵では、食材から食器、生きた牛や羊までパリから運び、300人の宴を3度用意した。皇帝は料理を一皿ずつ順に出すロシア式の給仕を好んだが、カレームは多くの皿を一度に並べるフランス式のほうが華やかだと譲らなかった。皮肉なことに、19世紀のうちにヨーロッパに広まったのはロシア式のほうだった。ウィーン会議の時期のタレーランの食卓外交とカレームの名はよく結びつけて語られるが、彼自身がウィーンで料理したかどうかは確かではない。

ワーテルローの戦いに関わる図版:Battle of Waterloo 1815
ワーテルローの戦いWikimedia Commons William Sadler · Public domain

1816年、カレームはイギリスの摂政皇太子、のちのジョージ4世の料理長としてロンドンとブライトンに渡った。破格の給料を受け、皇太子にも絶賛されたが、霧の多い気候と郷愁に耐えられず、翌1817年の末に帰国した。1819年にはロシア皇帝の招きでサンクトペテルブルクへ行ったものの、宮廷になじめず数か月で戻っている。その後はイギリスの駐ウィーン大使スチュワート卿に仕え、この時期に料理人の白く高い帽子を考案したと伝えられる。寝間着のような帽子では病人に見える、料理人は健康そのものに見えるべきだ、というのが彼の言い分だった。1823年からは、フランス一の富豪だった銀行家ジェームス・ド・ロチルドの料理長を務めた。

カレームは料理を後の世に伝えることに力を注ぎ、図版の多い著書を次々に出した。1815年の菓子の本に始まり、1822年の『フランスの給仕長』では、料理長は料理だけでなく給仕まで監督すべきだと説いた。ソースを、ヴルーテ、ベシャメル、アルマンド、エスパニョールという基本のソースから組み立てる考え方は、後のフランス料理の土台になった。魚料理に肉を添えるような古い慣習を退け、最上の材料を使って整った形に料理を体系化した。

長年、炭火の煙がこもる厨房で働いたため体を壊し、晩年はパリの自宅で大著『19世紀のフランス料理術』の執筆に打ち込んだ。全5巻の予定のうち3巻を書き上げたところで、1833年1月12日に48歳で死に、モンマルトル墓地に葬られた。残りは弟子のプリュムレが完成させた。シェフの王にして王のシェフと呼ばれた彼の流儀は、エスコフィエらに受け継がれ、20世紀後半に軽い料理が主流になるまで、フランスの高級料理の型であり続けた。

動画(1)

料理こそ最強兵器!?フランスを守った天才料理人アントナン・カレームを明るく解説!非株式会社いつかやるフランス料理を築いた天才料理人アントナン・カレームの生涯を解説する
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