ネブカドネザル1世
概要
イシン第二王朝の王。エラムがマルドゥクの像を持ち去って半世紀、夏の暑さの中でエラムを破り、像を取り戻した。「ナブーよ、境界を守れ」の名。600年後のネブカドネザル2世は、この王の名を取った。
関わったできごと(1)
ネブカドネザル1世のエラム遠征BC1120年頃 · 王本文
アッカド語の名はナブー・クドゥッリ・ウツル。「ナブー神よ、わが長子を守りたまえ」とも「わが境界を守りたまえ」とも訳される。クドゥッルという語が、跡取りの子と、土地の境界の両方を意味するためである。紀元前12世紀の後半、紀元前1125年頃から1104年頃まで、バビロニアを治めた。イシン第二王朝の4代目の王である。
この王朝は、500年近くバビロニアを支配したカッシート人の王朝が倒れたあとに、南部の古い都市イシンから起こった、土地の人々の王朝だった。カッシート朝を終わらせたのは、東の山地からやって来たエラムである。紀元前1158年頃、エラムの王シュトルク・ナフンテはバビロニアに攻め込み、町々から戦利品を運び去った。その中には、ハンムラビの法典を刻んだ石碑もあった(ハンムラビ法典)。1901年、フランスの調査隊がこの碑を見つけたのは、バビロンではなく、エラムの都スサの遺跡である。
さらに屈辱的だったのは、続くエラム王がバビロンの主神マルドゥクの像を持ち去ったことだった。古代メソポタミアの人々にとって、神の像は神そのものが住まう場所である。像が奪われれば、神が町を見捨てて去ったことになる。毎年の新年祭は、マルドゥクの像が行列に出なければ行えない。バビロンは何十年ものあいだ、主神を欠いたまま過ごした。
ネブカドネザル1世はマルドゥクを取り戻すことを生涯の仕事とした。最初の遠征は失敗に終わった。残された文書では、王が自らその失敗を語っている。疫病が軍を襲い、兵は倒れ、王は引き返すしかなかった。そこで二度目の遠征では、意表を突いて真夏に出た(ネブカドネザル1世のエラム遠征)。メソポタミアの夏は、戦争をする季節ではない。

その遠征の様子は、王が戦功のあった家臣に土地と免税の特権を与えたことを記した境界石(クドゥッル)に刻まれている。道は火のように焼け、斧の刃が燃えるようで、井戸は干上がり、馬は倒れ、最も強い者さえ足がよろめいた、と碑文は書く。戦車隊を率いた家臣は王の右で戦い、ウライ川のほとりでエラム軍を打ち破った。エラムの王は姿を消した、と碑文は記す。ネブカドネザルはエラムの地を荒らし、マルドゥクの像をバビロンへ連れ帰った。
王が家臣と結んだ土地の約束を刻むはずの石が、戦争の記録になった。クドゥッルには、上部に太陽、月、星、蛇、サソリといった神々の印が彫られ、約束を破る者に神々の呪いが下るよう記されている。現在、大英博物館などに多くが残る。

マルドゥクの帰還は、宗教のうえでも転機になった。それまでメソポタミアの神々の王は、古い聖都ニップルのエンリルだった。マルドゥクはもともとバビロンの町の神にすぎなかったが、この王の時代のころから、神々の頂点に立つ神として明確に扱われるようになる。マルドゥクが海の女神ティアマトを倒し、その体を二つに裂いて天と地を造り、神々の王として推戴される創世の物語『エヌマ・エリシュ』も、像の帰還を祝ってこの時代に今の形に整えられたと考える研究者が少なくない。ただし、成立の年代には異論もある。この物語は、のちにバビロンの新年祭で毎年唱えられた。旧約聖書の創世記の冒頭に出てくる「深淵」(テホム)の語は、ティアマトと同じ語源を持つとされる。
ネブカドネザル1世は北のアッシリアとも戦ったが、こちらでは決定的な勝利を得られなかった。およそ22年の治世ののち、紀元前1104年頃に死んだ。王朝はその後も続いたが、まもなくアラム人の移動などでメソポタミア全体が混乱の時代に入る。

およそ500年後、バビロンを再び大国にしたカルデア人の王ナボポラッサルは、息子にネブカドネザルの名を付けた。マルドゥクを取り戻した英雄の名を意識したものとみられる。その息子ネブカドネザル2世がエルサレムを滅ぼし、バビロンを壮大な都に造り替えたことで(ネブカドネザルのバビロン)、その名はあまりに有名になった。今ではネブカドネザルと言えば2世のことで、マルドゥクを連れ帰った最初のネブカドネザルを知るのは、ほとんど専門家だけになっている。