アイスマンの死
概要
氷河で見つかった男。銅の斧を持ち、背中に矢を受けていた。名も身分も分からない一人の人間の、最後の数日が分かっている。
場所
46.78°N 10.84°E · イタリア/オーストリア国境
本文
1991年9月19日、ドイツから来た夫婦が、オーストリアとイタリアの国境に近いエッツタール・アルプスの尾根を歩いていた。標高3200メートルを超える岩のくぼみに、溶けかけた氷から人の頭と肩が突き出ていた。数年前に遭難した登山者だろう、と誰もが思った。遺体は削岩機や杖で乱暴に掘り出され、その際に腰や衣服の一部が傷ついた。
そばにあった斧と、遺体の古び方が、専門家の目を引いた。調べてみると、男は5000年以上前の人だった。放射性炭素で測った年代は、紀元前3350年から紀元前3100年ごろである。エジプトでは国の統一が進み(上下エジプトの統一)、メソポタミアのウルクで文字が生まれつつあった時代にあたる(ウルク。都市というものの始まり、楔形文字の成立)。発見場所が国境のわずかにイタリア側だったことが分かり、男はいま、イタリアの南チロルのボルツァーノにある博物館で、氷河と同じ温度と湿度に保たれて眠っている。発見された谷の名から、「エッツィ」と呼ばれる。

冷たく乾いた氷の中で、体はほとんどそのまま残った。男は45歳前後、身長160センチ、体重50キロほど。目は茶色で、遺伝子の調べでは、肌はいまのヨーロッパの人びとより濃い色で、頭はかなり禿げていた可能性が高い。祖先の多くは、アナトリアから農耕を持ってきた人びとにさかのぼる。
体には、61の入れ墨があった。肌を切って炭をすり込んだ、短い線や十字の印である。多くが腰や膝や足首など、関節のあたりにある。調べると、その場所の関節や骨はすり減っていた。痛みを和らげるための治療だったのではないかと考えられている。体内には鞭虫の卵があり、ライム病の病原体の遺伝子も見つかった。胃には、ピロリ菌もいた。

持ち物が、当時の暮らしを教えてくれる。銅の刃をイチイの柄にはめた斧は、純度の高い銅で、その銅は遠くイタリア中部のトスカーナあたりで採れたものと分析されている。ほかに、火打ち石の短剣、イチイの木を削った作りかけの長弓、14本の矢の入った鹿皮の矢筒。矢のうち、仕上がっていたのは2本だけだった。白樺の樹皮で作った入れ物には、楓の葉に包んだ炭火が入っていた。腰の袋には火口にするキノコが、革紐には虫下しなどの薬効があるとされる白樺のキノコが通してあった。
衣服も残っていた。羊や山羊の革を縫い合わせた上着とすね当て、熊の毛皮の帽子。靴は、底が熊の革、甲が鹿の革で、中に干し草を詰めて寒さを防いでいた。
最後の食事も分かっている。胃の中には、アイベックスという野生の山羊の脂の多い肉と、古い品種の小麦、そしてシダの葉が残っていた。腸には、それより前に食べた鹿の肉もあった。谷の低いところに咲く木の花粉が含まれていたことから、死んだのは春の終わりか夏の初めで、死ぬ前の数日のうちに谷から山へ登ってきたことがうかがえる。食事をとってから死ぬまでは、長くても数時間だったとされる。
死因が分かったのは、発見から10年たった2001年のことである。X線写真をよく見直すと、左の肩の下に石の矢じりが食い込んでいた。矢は背後から射られ、肩の下の太い動脈を傷つけていた。おそらく、数分のうちに出血で死んだ。頭にも強く打った傷がある。右手には、死ぬ数日前に負った深い切り傷があり、治りかけていた。誰かと争って身を守ったときの傷ではないかと考えられている。道具に他人の血がついていたという報告も出たが、のちの調べでは確かめられていない。
矢を射た者は、高価な銅の斧を持ち去らなかった。物を奪うための襲撃ではなかったのかもしれない。男は何者で、なぜ追われたのか。羊飼いか、狩人か、村の有力者か。いくつもの物語が考えられてきたが、答えは出ていない。
名も、言葉も、身分も分からない。それでも、一人の人間がどこで生まれ、何を食べ、どこを痛め、どんな道具を携えて山を登り、どのように死んだのかが、5000年後にこれほど細かく分かる例はほかに無い。エッツィは、文字の無い時代のヨーロッパを生きた、ただ一人の顔の見える人として、いまも調べられ続けている。