最初のアフリカ外進出
概要
レヴァントまで出た集団は、そこで途絶えたらしい。いまアフリカの外にいる人のほとんどは、ずっとあとの一度の出立の子孫になる。
場所
32.67°N 34.97°E · イスラエル(スフール・ミスリヤ洞窟)
本文
ホモ・サピエンスは、アフリカで生まれた(ホモ・サピエンスの出現)。30万年前ごろには、いまの私たちに近い顔つきの人びとがアフリカの各地にいた。その外の世界、ヨーロッパや西アジアにはネアンデルタール人が、東アジアにはそれとは別の古い人類が暮らしていた。サピエンスがいつ、どこを通ってアフリカの外へ出たのか。答えは、かつて考えられていたより入り組んでいる。
アフリカから外へ出る陸の道は、ほぼ一本しかない。シナイ半島を通ってレヴァント、いまのイスラエルやレバノンのあたりへ抜ける道だ。気候が湿って、ふだんは砂漠の土地に緑が広がった時期には、この回廊が開いた。そしてその出口に、カルメル山がある。地中海を見下ろす石灰岩の山で、斜面にいくつもの洞窟が口を開けている。

1930年代、この山のスフール洞窟と、少し内陸のカフゼー洞窟から、何体もの人骨が掘り出された。額が立ち、あごの突き出た顔は、ネアンデルタール人ではなくサピエンスのものだった。年代は、のちの測定で約12万年前から9万年前ごろとされた。遺体は意図して埋葬され、カフゼーでは赤い顔料のかたまりや、穴の開いた貝殻も見つかっている。身を飾り、死者を葬る人びとだった。
2018年には、カルメル山のミスリヤ洞窟で見つかった上あごの骨が、約19万年前から18万年前のサピエンスのものだと報告された。それまでの記録を大きくさかのぼる。ギリシアの洞窟の頭骨の破片を21万年前のサピエンスとする報告もあるが、こちらは解釈に異論が多い。いずれにせよ、サピエンスはずいぶん早くからアフリカの外へ足を踏み出していた。

ここまでは出た。しかし、その先が続かない。カルメル山の洞窟では、サピエンスのいた層の上に、ふたたびネアンデルタール人の暮らした層が重なる。6万年前ごろのケバラ洞窟では、ネアンデルタール人の埋葬が見つかっている。レヴァントは、寒くなればネアンデルタール人が北から下り、暖かく湿ればサピエンスが南から上がってくる、二つの人類が入れ替わりに使った土地だったらしい。
決め手は、いま生きている人びとの遺伝子だった。アフリカの外に住む人の遺伝子をたどると、その祖先は、6万年前から5万年前ごろにアフリカを出た、比較的小さな一つの集団にほぼ行き着く。それより前に出た集団の血筋は、いまの人びとの中にほとんど残っていない。最初の進出者たちは、子孫を残さずに途絶えたか、ほかの集団に飲み込まれて見えなくなった。

ただ、跡がまったく消えたわけではない。シベリアのアルタイ山地で見つかったネアンデルタール人の遺伝子には、10万年前ごろにサピエンスと交わった痕跡が含まれていた。早い時期に出たサピエンスは、確かにどこかでネアンデルタール人と出会っていたことになる。パプアニューギニアの人びとの遺伝子に、早い出立の名残がわずかに残るとする研究もあるが、まだ確かめられてはいない。
なぜ途絶えたのかは分からない。気候が乾いて回廊が閉じ、取り残された集団が細っていったのか。寒冷な時期に南下してきたネアンデルタール人に押し戻されたのか。それとも、単に人数が少なすぎて、偶然の不運で消えてしまったのか。後の集団と違って新しい道具や考え方を持っていなかったから、と説明されることもあるが、カルメル山の人びとの石器はネアンデルタール人のものとほとんど区別がつかず、この違いを確かめる手立てはまだ無い。
アフリカの外の、もっと遠い場所からも古い痕跡が報告されている。アラビア半島の砂漠で見つかった約8万5000年前の指の骨、中国南部の洞窟で見つかった8万年前より古いとされる歯。とくに中国の例は、年代の測り方をめぐって議論が続いている。もし確かなら、最初の進出はレヴァントで止まらず、東へずっと遠くまで届いていたことになる。
いまアフリカの外にいる人のほとんどは、ずっとあとの出立の子孫だ。その人びとはやがてネアンデルタール人やデニソワ人と交わりながら世界に広がり、先にいた人類はやがて姿を消していく(ネアンデルタール人の消滅)。カルメル山の洞窟は、その前に、一度は扉が開き、そして閉じたことを伝えている。