武田物外
概要
幕末の曹洞宗の僧で武術家。「拳骨和尚」と呼ばれ、不遷流柔術を開いた。怪力の逸話が数多く伝わる。
本文
武田物外は寛政7年(1795年)、伊予松山藩士の三木家の長男に生まれた。不遷は僧としての名で、物外は号である。藩主の落とし胤だという話や、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に生まれたので幼名を寅雄といったという話もあるが、どちらも講談風の脚色とみられている。5歳で松山の寺の小僧になったが、そのころから手に負えない悪童だったらしい。
12歳で師に引き取られて広島へ移り、昼は寺の修行、夜は道場通いに励んで多くの武術を身に付けた。土地の言葉で腕白を塩辛といい、「塩辛小僧」として名が知れたという。15歳のとき、遊び仲間の口論から大がかりな合戦を企て、それが発覚して勘当された。役人が合戦の場所を調べると、陣立てや地雷の仕掛けが本格的で驚き、問いただすと『太閤記』を読んで工夫したと答えたと伝えられる。
その後は大坂で托鉢をしながら儒学を学び、18歳で雲水となって諸国を歩いた。越前の永平寺(道元の永平寺)、宇治の興聖寺などで修行し、江戸の駒込吉祥寺の学寮にも入った。27歳で山口の瑠璃光寺で長老となり、のちの長州の志士たちとの縁はこの頃にできたと考えられている。34歳で備後尾道の済法寺の住職となり、以後はここを拠点にした。
武術では難波一甫流の柔術を学び、自ら不遷流と称した。鎖鎌は山田流、槍は宝蔵院流、馬術は大坪流で、もっとも得意としたのは鎖鎌だったという。ただし無敵だったわけではない。松江では直信流の小倉六蔵と試合をして敗れ、「雲藩の柔道は強いわい」と舌を巻いたと伝わり、揚心流の柏崎又四郎にも人前の試合で倒されたという話がある。
「拳骨和尚」の名は、数々の怪力の逸話から来ている。浅草の古道具屋で碁盤を気に入ったが手持ちが無く、手付けを求められると、碁盤を裏返して拳で殴りつけ、拳の跡を残して「これならよかろう」と言ったという。拳の跡のついた碁盤はほかにも何枚か残っているとされる。永平寺では、うどんをおごってもらう代わりに、誰も吊り直せなかった釣鐘を一人で吊り上げたが、鐘を下ろしたのは物外自身だったという話も伝わる。済法寺を訪ねてきた武者修行者を、手水鉢の大石を片手で持ち上げてその下を箒で掃いてみせ、退散させたという話もある。いずれも逸話を集めた後の本に載るもので、どこまでが事実かは分からない。
天保年間、日照りに苦しむ農民に雨乞いを頼まれると、寺の鐘を外して海へ運び、17日間祈ったうえで沖へ投げ込んだところ、雨が降り出したという。後に網にかかって戻ってきた鐘からはイボが8個欠けており、物外は八大竜王が1個ずつ受け取られたのだろうと言ったと伝えられる。俳諧もよくし、句集を残している。三原城主が一羽で飛ぶ雁の絵を謀反の兆しだと嫌ったとき、「初雁や またあとからも あとからも」と賛を書き添えて機嫌を直させたという話は、この人の機知をよく伝えている。
晩年は長州の志士たちと交わり、元治2年(1865年)に隠居した後、長州と幕府の争いを鎮めるための願書を朝廷に差し出した。返事が無いので弟子を京へ送り、直訴までさせたという。明治37年(1904年)に出た逸話集『物外和尚逸傳』には、京で近藤勇の新選組の道場に連れ込まれ、隊士たちを次々に打ち倒したうえ、近藤の繰り出す槍の首を托鉢の木椀二つで挟み取ったという話まで載っている。これは後年の講談めいた話とみるべきだろう。
慶応3年11月25日(1867年12月20日)、大坂から海路で尾道へ帰る途中、大坂の旅館で死んだ。数えで73歳だった。その生涯は逸話集や講談、津本陽の小説『拳豪伝』などで語り継がれ、近年ではゲームにも登場している。