祝嶺正献
概要
沖縄名護生まれの空手家。玄制流空手道を開き、体の軸を変えて攻防する新しい武道「躰道」を創始した。
所属
日本本文
祝嶺正献は、沖縄の古い空手を土台に玄制流空手道を開き、さらにそこから新しい武道「躰道」を作り上げた武道家である。本名は祝嶺春範で、かつては祝嶺制献と号した。「祝嶺正献」の名は後継者に受け継がれており、ここで取り上げるのは初代である。
1925年(大正14年)、沖縄県の名護に生まれた。12月9日生まれとする資料もある。8歳だった1933年から佐渡山安恒に空手を学び、1937年からは首里の流れをくむ岸本祖孝に師事した。岸本は生涯にごくわずかな弟子しかとらなかったとされ、祝嶺は何度も頼み込んでようやく入門を許されたと伝えられる。初めて会ったとき、岸本がいきなり火箸で炭を投げつけ、それをかわしたので入門を認めたという逸話も残る。
太平洋戦争中、祝嶺は18歳で海軍に入り、特攻のための兵器として作られた人間魚雷「回天」の搭乗員として訓練を受け、敵艦を守る防潜網をくぐり抜けて進む操縦を学んだと伝えられる。出撃の命令は下らず、生きて終戦を迎えた。沖縄に戻ると、故郷は沖縄戦で焼け野原になっており、師の岸本も戦争のさなかの1945年に亡くなっていたという。祝嶺は、相手の予想しないことをするのが、国と国の戦いでも個人の争いでも勝利の鍵だということを戦争の中で学んだ、と語っている。

戦後、祝嶺はしばらく人前から離れて稽古を重ね、師から受け継いだ型に自分の工夫を加えていった。1950年に「玄制流空手道」の名を公にした(正式な名乗りを1953年とする資料もある)。演武では、跳び上がって空中で何度も蹴る技を見せ、テレビの生放送では、腰の高さまで積み上げた瓦34枚を手刀の一撃で割ってみせたという話が伝わる。玄制流は大学や自衛隊、会社の道場など120あまりの道場で教えられ、全国的な組織に育った。
1964年には『新空手道教範』を著し、伝統の型と自分が作った型を写真入りで解説した。しかし祝嶺は、まっすぐ突き、まっすぐ受ける空手の動きそのものに限界を感じるようになっていた。相手の攻撃を受け止めるのではなく、体ごとかわし、体の軸の向きを変えながら攻められないか。こうして1965年1月23日、玄制流をもとに体系化した新しい武道「躰道」を発表し、同時に日本躰道協会と躰道本院を設けて、自ら宗家・最高師範となった。祝嶺は、躰道は空手の一派ではなく新しい武道だとした。
躰道は「体軸の変化によって攻防を展開する武道」と定義される。技は、足を軸に体を回す旋体、後ろ足で跳んで体ごと前に飛び出す運体、倒れ込みながら相手の攻撃をよけて攻める変体、体をひねる力を使う捻体、前転や宙返りの勢いを使う転体の五つの動き(操体)に分けられ、運足と呼ぶ独自の足さばきと組み合わせる。相手の攻撃は受け止めるより、体を動かしてかわすことが重んじられる。
競技には三つある。一対一で戦う「実戦」では、顔や首への攻撃、つかみや投げは反則で、攻めた後には次の動きに備える構え(原態復帰)に戻らなければならない。決まった型を演じる「法形」は、審判の旗や点数で勝ち負けを決める。もう一つの「展開」は、一人の主役が五人の脇役を25秒から30秒のあいだに倒す筋書きを、各チームが自分たちで作って演じる競技で、体操の床運動のような宙返りも入る。
躰道は大学の部活動を通じて広まり、1980年代には世界躰道連盟が設けられた。フィンランドをはじめヨーロッパでも稽古されるようになり、1993年には最初の世界選手権が日本で開かれた。一方、玄制流も弟子たちの手でいくつもの会派に分かれて受け継がれ、1991年には全日本空手道連盟の加盟団体となった。
祝嶺は晩年、長く病を抱えた。2001年11月26日、静岡県伊東市にある躰道本院「岳雲荘」で亡くなった。沖縄の古い空手と戦争の体験から生まれた躰道は、宙を舞い、体を沈め、回りながら戦う独特の武道として、いまも稽古され続けている。