人物

中野竹子

Nakano Takeko
1847年 – AD1868年10月10日(享年21・推定)
会津藩重要度 2

概要

会津藩士の娘。会津戦争で女性たちの隊を率いて薙刀で戦い、涙橋の戦いで銃弾に倒れた。

所属

会津藩

本文

中野竹子は、会津藩の江戸詰の勘定役・中野平内の長女として、江戸の会津藩邸で生まれた。生年は1847年とされるが、亡くなったときの年齢には20歳のほか18歳や22歳とする説もあり、はっきりしない。幼いころから利発で、5、6歳で小倉百人一首をそらんじたと伝えられる。父は娘の教育に熱心で、文武に優れた藩士・赤岡大助に入門させた。赤岡は竹子の才に感心し、養女に迎えた。

竹子は十代半ばで経書や史書を学び、漢詩や和歌もたしなんだ。書を学んで、ほかの藩の藩主夫人の祐筆を務めたこともあったという。一方で、藩士の黒河内兼規について薙刀と短刀の術を学び、薙刀は免許皆伝ほどの腕前だったとされる。養父の甥との縁談も進んでいたが、京都の戦いに始まる戊辰戦争で会津藩が新政府軍と戦うことになると、竹子は実家に戻り、家族とともに会津へ帰った。会津では城下の坂下で、女性や子どもに学問や薙刀を教えていたという。

1868年(慶応4年)8月23日、新政府軍が若松の城下に攻め込んだ(会津戦争)。藩士の家族は鶴ヶ城に籠もることになっていたが、竹子たちは城に入りそこねた。藩主の姉の照姫が坂下へ逃れたと聞いて探しに出ていたためとされる。竹子は母のこう子、妹の優子らとともに、自分たちで戦うことを決めた。藩の重臣は、女まで戦わせたと笑われると言って最初は断ったが、許されなければ自害するという覚悟に押され、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊とともに戦うことを認めた。この女性たちの集まりは、のちに「娘子隊」(娘子軍)と呼ばれる。もとは鳥羽・伏見の戦いの敗報を聞いた藩士の家の女性たちが、主君や戦死した夫の恥をすすぐとして薙刀の稽古を始めた集まりで、依田まき子・菊子の姉妹や岡村すま子らが加わっていた。照姫が坂下にいるというのは誤報で、城門はすでに閉ざされていた。一行は家老の萱野権兵衛に従軍を願い出て断られ、部隊長の町野主水にかけ合って、ようやく加わることを許されたという。

会津戦争に関わる図版:Battle of Aizu at Wakamatsu castle by Tsukioka Yoshitoshi
会津戦争Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

戦いの前の晩、母と竹子は、隊でいちばん若い優子が敵に捕まって辱めを受けるくらいなら、自分たちの手で殺そうと話し合ったという。眠っている優子に手をかけようとしたところを、同じ隊の依田姉妹が止め、戦場で一緒に死のうということになった。この話は依田菊子が後に語ったものとして伝わる。

8月25日(新暦10月10日)、衝鋒隊と女性たちは城下の西、涙橋のあたりで新政府軍とぶつかった。女性がいると知った敵兵は「生け捕れ」と叫んだという。竹子は薙刀を振るって切り込んだが、頭に銃弾を受けて倒れた。胸を撃たれたとする説もある。首を敵に渡すまいと、母と妹が駆け寄って介錯し、首を持ち帰ったと伝えられる。首は会津坂下町の法界寺に葬られた。

同じ8月23日には、城下の火の手を見た白虎隊の少年たちが飯盛山で自刃している。鶴ヶ城には藩士の家族や女性たちも籠もり、のちに新島八重として知られる山本八重は銃を取って戦った。新政府軍の砲撃を受けながら城は1か月ほど持ちこたえたが、9月22日(新暦11月6日)に会津藩は降伏した。

竹子の薙刀には、辞世の歌を書いた短冊が結びつけられていた。武士の猛き心にくらべれば、数にも入らない我が身だけれども、という意の歌である。この薙刀は流転の末、いまは法界寺に納められている。生き残ったこう子と優子は城に入り、籠城していた山本八重らと合流した。

竹子の話は、白虎隊とならぶ会津の悲劇として語り継がれ、戦前には「烈女」として教科書や読み物に取り上げられた。ただ、伝わる逸話の多くは後に家族や隊の仲間が語ったものや、明治以後に書かれた伝記によるもので、どこまでが事実かは分からないところもある。

動画(1)

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