マダム・レステル
概要
19世紀のニューヨークで中絶と避妊薬の商売で巨万の富を築いた女性。「ニューヨークで最も邪悪な女」と呼ばれ、逮捕後に自ら命を絶った。
所属
アメリカ合衆国本文
マダム・レステルは、19世紀のニューヨークで中絶と避妊薬の商売を営み、巨万の富を築いた女性である。本名はアン・トロウ・ローマン。新聞に広告を出して公然と商売を続けたため、アメリカで最も名の知れた中絶医となり、同時に最も激しく非難された人物の一人になった。
1812年5月6日、イングランドのグロスターシャーにあるペインズウィックで、労働者の家に生まれた。15歳で肉屋の家のメイドとして働き始め、16歳で仕立屋のヘンリー・サマーズと結婚した。夫婦は1831年にニューヨークへ移り住んだが、夫は1833年にチフスで死に、アンは幼い娘を抱えて、お針子や産婆をして暮らしを立てた。
1836年、アンはドイツ系ロシア人の移民チャールズ・ローマンと再婚した。チャールズは新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の印刷工で、急進的な自由思想家でもあり、産児制限を説く本の出版にも関わっていた。アンの弟も薬局で働いていた。夫婦は、アンがヨーロッパでレステルという名高いフランス人医師について産科を学んだという話をこしらえ、「マダム・レステル」の名で、女性の月経を整えるという丸薬や避妊の粉薬を売り出した。品物は郵便で送り、往診も行った。やがて薬では足りないときのために、手術による中絶も手がけるようになった。
商売を始めたころ、中絶はほとんど違法ではなかった。禁じられていたのは、妊婦が胎動を感じ始めたあとの手術による中絶だけだった。レステルは「女医」として新聞に広告を出し、客の身分に応じて料金を変え、裕福な客からは1000ドル以上を取ったという。成功を見て、まねをする者も各地に現れた。
一方で、新聞はレステルを激しく攻撃した。1839年7月には早くも、その商売は社会の秩序の根を断つものだと非難する社説が出ている。1841年、若い女性メアリー・ロジャーズの遺体がハドソン川で見つかると、新聞はレステルの手による中絶で死んだのではないかと書き立てた。この事件はエドガー・アラン・ポーの短編『マリー・ロジェの謎』の題材にもなった。
1845年、ニューヨーク州は法律を改め、妊娠のどの段階であっても中絶を行うことや、中絶の薬を売ることを罪とした。1847年、レステルはマリア・ボダインという女性への中絶の罪で有罪となり、ブラックウェルズ島の監獄で1年を過ごした。出所後は手術をやめて薬と下宿の商売に絞ったが、富は増え続け、やがて5番街と52丁目の角に大邸宅を構えた。上等の馬と馬車、絹の衣装で知られ、新聞は彼女を「ニューヨークで最も邪悪な女」と呼んだ。
1857年には、アメリカ医師会が中絶をなくす運動を始め、名高いレステルをその敵として名指しした。南北戦争のあいだ世の関心はそれたが、戦争が終わると、受精の時から胎児は生きているのだから中絶はすべて殺人だという主張が強まっていった。1873年、議会は猥褻とされるものの配布を禁じる、いわゆるコムストック法を定めた。避妊や中絶の情報もその対象とされた。

1878年の初め、法律の名のもとになった郵政監察官アンソニー・コムストックが、妻のために避妊薬を求める客を装ってレステルに近づき、翌日警察を連れて逮捕した。保釈の後、4月1日の朝、レステルは5番街の邸宅の浴槽の中で、自ら喉を切って死んでいるのを女中に見つけられた。遺した財産は50万から60万ドルにのぼった。
レステルは、金のために女性の体を危険にさらした悪人として語られてきた。他方で、彼女の広告や文章の中に、女性が自分の健康と家族を守る権利を求める主張を読み取る歴史家もいる。19世紀のアメリカで中絶が禁じられていく流れは、彼女の名を抜きには語れない。その問いは、一世紀後のロー対ウェイド判決をはじめ、いまもアメリカ社会を二分し続けている。