人物

エリザベート・バートリ

Báthory Erzsébet
AD1560年8月7日 – AD1614年8月21日(享年54)
ハンガリー王国重要度 2

概要

ハンガリーの大貴族の女性。召使いの娘たちを責め殺した罪で城に閉じ込められ、「血の伯爵夫人」の伝説を残した。

所属

ハンガリー王国

本文

エリザベート・バートリ(ハンガリー語ではバートリ・エルジェーベト)は、1560年、ハンガリー王国東部のニールバートルで、名門バートリ家のエチェド系に生まれた。母もバートリ家の別の系統の出で、叔父には、トランシルヴァニア公からポーランド王になったバートリ・イシュトヴァーンがいる。当時のハンガリーは、1526年のモハーチの戦いのあと、オスマン帝国の領土、ハプスブルク家が王位を握る王領ハンガリー、トランシルヴァニア公国の三つに割れていた。バートリ家は、その境目に広い領地を持つ有力な一門だった。

モハーチの戦いに関わる図版:A mohácsi csata (Des Türckischen Keysers Solymon schlacht - So mit dem Künig von Hungern gethan, Bamberg, 1526)
モハーチの戦いWikimedia Commons unknown · Public domain

彼女はカルヴァン派の新教徒として育ち、ハンガリー語のほかラテン語やドイツ語を学んだとされる。当時の貴族の女性としては教育のある人だった。幼いころに発作を繰り返したという記録があり、てんかんだったとみる研究者もいる。

1575年5月、15歳で大貴族ナーダシュディ・フェレンツと結婚した。家どうしの結びつきを固める政略結婚で、婚礼の贈り物として夫から与えられたのが、のちに彼女の名と結びつくチェイテ城(今のスロバキアのチャフティツェ)である。夫はオスマン帝国との戦いで名を上げた指揮官で、長いトルコ戦争(1593〜1606年)の間もほとんど戦場にいた。そのあいだ、ウィーンへの道筋にあたる領地の経営と守りは彼女が担った。夫婦には娘のアンナをはじめ数人の子がいた。1604年1月に夫が病で死ぬと、彼女は広大な領地を抱える寡婦となった。

1602年ごろから、彼女の館で奉公に上がった若い娘たちが次々に死んでいるという噂が広がり、ルター派の牧師マジャリ・イシュトヴァーンがこれを公に、またウィーンの宮廷にも訴えた。1610年、国王マーチャーシュ2世は、ハンガリーの宮中伯トゥルゾー・ジェルジに調べを命じた。公証人たちが各地で証言を集め、1611年までに300人を超える証言がそろった。そこには、農民や小貴族の娘たちが殴られ、焼いた鉄や針で責められ、冬の屋外で水をかけられて凍えさせられたという話が並んでいる。

1610年12月の末、トゥルゾーはチェイテ城に入り、彼女と4人の召使いを捕らえた。召使いたちは翌1611年1月に裁判にかけられ、3人が処刑され、1人は終身刑となった。彼女自身は大貴族であるため裁判の場には立たされず、チェイテ城の一室に閉じ込められた。扉や窓は塞がれ、食事を入れる小さな穴だけが残されたと伝えられる。彼女はそのまま城を出ることなく、1614年8月21日に死んだ。罪に問われた殺害は80件とされる。ある証人は650人という数を挙げたが、それを裏づける記録は見つかっていない。

この事件には、いまも別の見方がある。証言の多くは又聞きで、召使いたちの自白は拷問のもとで取られた。夫の死後、彼女が持つ広大な領地の行方は周りの貴族や王家にとって大きな関心事であり、王家がナーダシュディ家に多額の借りを負っていたことを指摘する研究者もいる。彼女を裁判にかけずに閉じ込めたのは、家の財産を没収させずに守るための取り決めだったとも言われる。残虐な行いがあったこと自体を疑わない研究者が多い一方で、その規模や動機については議論が続いている。

処女の血を浴びて若さを保とうとしたという有名な話は、当時の裁判記録には出てこない。彼女の死から100年以上たった18世紀に、ある歴史家の本に初めて書かれたもので、今の研究者は信用できない伝説とみている。それでも「血の伯爵夫人」の名は、吸血鬼の物語と結びついて広まった。同じ東欧のヴラド3世とともにドラキュラの像の源の一つと言われることがあるが、小説の作者が彼女を参考にしたという直接の証拠は無い。チャフティツェの丘の上には、いまも崩れた城が残っている。

動画(1)

歴史に残る拷問処刑3選part2【血の伯爵夫人・公開刑の裏話・鋸引き】非株式会社いつかやる拷問処刑三選の一つとして「血の伯爵夫人」の所業と伝説を語る
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