やなせたかし
概要
戦争で飢えを知り、「自分の顔を食べさせるヒーロー」を書いた。アンパンマンが受け入れられたのは、作者が54歳のときになる。
所属
日本関わったできごと(1)
アンパンマンの誕生AD1973年 · 作者本文
やなせたかし、本名柳瀬嵩は、1919年2月、東京に生まれた。父は新聞社の記者で、一家はのちに中国の厦門へ移ったが、父はそこで病に倒れ、やなせが5歳のときに亡くなった。母は再婚し、やなせと弟の千尋は、高知で医者を開業していた伯父の家に引き取られて育った。弟は伯父夫婦の養子となり、やなせは、自分だけが家の中で居場所のない子どものように感じていたと、のちに書いている。絵を描くことが好きな少年だった。
東京の工芸学校で図案を学び、卒業後は製薬会社の宣伝部で働いた。だが、1941年に召集され、陸軍の兵として、日中戦争(日中戦争)が続く中国大陸へ送られた。大きな戦闘に加わることは少なかったが、戦争の末期、部隊は補給を断たれ、ひどい飢えに苦しんだ。道端の草を食べ、空腹のあまり何も考えられなくなる。やなせは後年、戦争でいちばんつらかったのは、敵の弾よりも飢えだった、と繰り返し語っている。

弟の千尋は、京都の大学から海軍に進み、1944年の暮れ、乗っていた駆逐艦が台湾とフィリピンのあいだの海で沈められて戦死した。帰国したやなせは、ただ一人の兄弟を失ったことを知った。正しいと信じて戦った戦争が、終わってみれば正義ではなかったとされる。正義とは何なのか、という問いは、このときからやなせの中に残り続けた。
戦後、やなせは高知の新聞社で働き、そこで出会った同僚の暢と結婚した。上京して百貨店の宣伝部に勤め、いまも使われているその百貨店の包装紙のロゴの文字を書いた。1953年に独立して漫画家になったが、新聞や雑誌に描く大人向けの漫画は、なかなか大きな評判を得られなかった。同じ世代の漫画家たちが次々に人気を得ていく中で、やなせは長く、何でも引き受ける便利屋のような仕事を続けた。ラジオやテレビの台本を書き、舞台の美術を手がけ、歌の詞を書いた。1961年に作詞した『手のひらを太陽に』は、のちに子どもたちの歌として広く歌われるようになった。

アンパンマンの原型が生まれたのは、1969年である。大人向けの雑誌に書いた短い物語で、そこでは、太ったさえない中年の男が、空を飛んで飢えた子どもたちにパンを配って回る。格好のよくない正義の味方だった。1973年、やなせはこれを幼い子ども向けの絵本に描き直した。今度のアンパンマンは、顔がアンパンでできていて、お腹をすかせた人に自分の顔をちぎって食べさせる(アンパンマンの誕生)。やなせは54歳になっていた。
出版されると、大人たちの評判は悪かった。顔を食べさせるなんて残酷だ、子どもに見せるものではない、と言われた。出版社の編集者も、評論家も、首をかしげた。だが、子どもたちは違った。幼稚園や図書館では、アンパンマンの絵本が子どもたちに繰り返し読まれ、手から手へ渡って、すり切れていった。大人が選ばなかった本を、子どもが選んだのである。絵本は少しずつ続編が作られ、仲間の登場人物も増えていった。

1988年、アンパンマンはテレビのアニメになった。やなせは69歳だった。アニメは幼い子どもたちのあいだで爆発的な人気を得て、アンパンマンは日本でいちばん知られた子どものための主人公の一人になった。登場するキャラクターの数は増え続け、のちに一つのアニメのシリーズで最も多くのキャラクターが登場する作品として、世界記録にも認められている。主題歌の詞も、やなせが書いた。何のために生まれて、何をして生きるのか。子どもの歌としては重いその問いは、やなせ自身が長い不遇の時代に問い続けたものでもあった。
やなせの正義についての考えは、はっきりしていた。本当の正義とは、悪者を倒すことではなく、ひもじい人に一切れのパンを分けることだ。そして正義を行う者は、自分も傷つくことを覚悟しなければならない。だからアンパンマンは、自分の顔を差し出す。戦地で飢えを知り、正義が簡単にひっくり返るのを見た人の、譲れない考えだった。
晩年まで、やなせは仕事を続けた。妻の暢に先立たれた後も、病を抱えながら絵を描き、詩を書き、高知に作られた記念館を訪れる子どもたちに会った。2013年10月、94歳で亡くなった。売れない時代が長く、代表作が生まれたのは50代、それが広く知られたのは70歳近くになってからである。遅咲きの人生そのものが、多くの人を励ますものとして語られている。2025年には、やなせと暢の夫婦をもとにしたテレビの連続ドラマも作られた。