鼠小僧次郎吉
概要
江戸後期の泥棒。大名屋敷ばかりを狙って盗みを重ね、獄門に処された。のちに義賊として伝説になった。
本文
鼠小僧次郎吉は、江戸時代後期の化政期に、大名屋敷ばかりを狙って盗みを重ねた泥棒である。生年は寛政9年(1797年)とされるが、寛政7年や8年とする説もある。江戸の堺町にあった歌舞伎小屋・中村座の木戸番を務める定七の長男として、大坂町(いまの日本橋人形町)に生まれたと伝わる。
幼いころは建具職人の弟子になったが、16歳で親元に戻り、その後は鳶の人足になった。しかし博打を好んで身を持ち崩し、文政4年(1821年)には父から勘当された。賭け事の元手を稼ぐために、盗みに手を染めるようになったとされる。
文政6年(1823年)ごろから泥棒に入るようになり、文政8年(1825年)2月、土浦藩の上屋敷に忍び込んだところを捕らえられた。このときは盗む前に捕まったのをよいことに余罪を隠し通し、入れ墨のうえ中追放の刑ですんだ。中追放は江戸などに住むことを禁じる刑だが、通り抜けることまでは禁じていなかったため、旅の途中を装って江戸に住み続ける者が多く、次郎吉も江戸へ戻ってきた。
その後も盗みは続き、塀を乗り越えたり、通用門から人に紛れて入り込んだりして、武家屋敷の奥向きや長局から金を盗んだ。天保3年(1832年)5月、日本橋浜町の小幡藩の屋敷に忍び込んだところを藩士に取り押さえられ、北町奉行所に引き渡された。取り調べで次郎吉は盗んだ額を1万2000両ほどと述べて周囲を驚かせたが、これは誇張の可能性がある。記録に残るのは、合わせて99か所の屋敷にのべ120回忍び込み、3000両あまりを盗んだというものである。1回の被害は10両前後のことが多く、何も盗めなかった屋敷もあった。自分の妹が奉公していた加賀藩の屋敷には、あえて入らなかったという。
なぜ大名屋敷ばかりを狙ったのかについては、次郎吉自身が説明している。武家屋敷は外から見ると厳重だが、中の警備は手薄で、出入りしやすい。女ばかりの奥向きには役人も遠慮して入らないので、見とがめられても逃げやすい。昼間でも、人足部屋に行くと言えば門番はたいてい通してくれた、と語ったと伝わる。被害を受けた元平戸藩主の松浦静山は、随筆『甲子夜話』に鼠小僧の噂を数多く書き留めた。鼠のように小さな穴を出入りし、壁を登り梁を走るので鼠小僧と呼ぶのだという。
裁きでは、身分の高い相手ばかりから盗んだことを理由に刑を重くしてよいのかが議論になったという。天保3年8月19日(1832年9月13日)、市中引き回しのうえ獄門の刑が言い渡された。引き回しの日には、すでに名の知れた鼠小僧をひと目見ようと、伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで見物人が押し寄せた。処刑の場所は小塚原とも鈴ヶ森ともいわれる。小塚原に晒された首を見に行った松浦静山の家臣は、悪人面ではなく、柔和で職人らしい顔だったと報告している。
家宅捜索ではほとんど金が見つからなかったため、盗んだ金を貧しい人々に配った義賊だという伝説が生まれた。しかし、記録の上では金を施した形跡は無い。盗んだ金は酒と女遊びと博打に使われていた。江戸学の三田村鳶魚は、大名屋敷を選んだのは単に都合がよかったからにすぎないと、伝説を退けている。一方で、民衆が鼠小僧を義賊として思い描いたこと自体には、武士の支配への不満の表れという意味がある、と見る歴史家もいる。
鼠小僧の物語は、死から25年後の1857年に河竹黙阿弥が歌舞伎『鼠小紋東君新形』にして広まり、以後、小説や映画、テレビ時代劇に繰り返し描かれた。芥川龍之介も短編を書いている。墓は両国の回向院にあり、長く捕まらなかった運にあやかろうと、墓石の前に置かれた石を削って持ち帰る人がいまも絶えない。次郎吉が処刑された翌年からは天保の飢饉が始まり、江戸の世相は暗さを増していく。大名の屋敷に忍び込んだ小男の噂話は、そうした時代の庶民がひととき溜飲を下げる種でもあった。