ランピアン
概要
ブラジル北東部の奥地を荒らした盗賊団カンガセイロの頭目。父を殺された復讐から無法者となり、16年にわたって官憲と戦った。
本文
ランピアン(ランピオンとも書く)は、20世紀のはじめにブラジル北東部の奥地を荒らし回った盗賊団の頭目である。本名はヴィルグリーノ・フェレイラ・ダ・シルヴァ。この地方の盗賊はカンガセイロと呼ばれ、その活動はカンガッソと呼ばれた。カンガッソは19世紀の終わりに始まり、1920年代から30年代に最も盛んになった。ランピアンはその中で最も名高い頭目である。
1897年7月7日、ペルナンブコ州の乾いた奥地(セルタン)にあるセーハ・タリャーダの村の近くで、貧しい農家の9人兄弟の3番目として生まれた。21歳になるまで父の牛や羊や山羊を追って暮らし、腕のよい乗り手であり、革細工の職人でもあった。学校には行かなかったが字が読め、眼鏡をかけていた。どちらも、この貧しい土地では珍しいことだった。
ブラジルでは1888年にブラジルの奴隷制廃止が実現し、翌年には帝政が倒れて共和国になったが、北東部の奥地の暮らしはほとんど変わらなかった。奥地には法も秩序もほとんど無く、わずかな警察も土地の有力な地主(コロネル)の言いなりだった。そうした社会では、隣どうしの争いがたちまち血で血を洗う抗争になった。ヴィルグリーノの一家も近所の家々との抗争に巻き込まれ、父は二度にわたって家族を連れて移り住んだが、暴力は追いかけてきた。1921年5月18日、父は警察との衝突の中で殺された。ヴィルグリーノは復讐を誓って無法者となり、警察に追われる身になった。ランピアン(「ランプ」の意)という呼び名は、夜にレバー式の小銃をあまりに速く撃つので、ランプを掲げているように見えたことに由来すると伝えられる。

ランピアンは盗賊の頭目セバスティアン・ペレイラの一団に加わり、1922年にペレイラが足を洗うと、その残りを率いるようになった。それから16年間、十数人から最大100人ほどの一団を率いて、北東部の7つの州をまたにかけて活動した。一団はカーチンガと呼ばれる棘だらけの低木林から身を守るため、帽子から上着、サンダル、弾帯まで革で身を固めていた。武器の多くは警察や軍から奪ったり、買収して手に入れたりしたものだった。
一団は小さな町や農場を襲い、人質をとって身代金を求め、脅して金を出させた。殺した人は1000人を超えるとも言われる。一方でランピアンは信心深く、聖職者を敬い、かくまってくれた人々には手厚く報いた。1929年12月にバイーア州の小さな町ケイマーダスを占拠したときには、電信局を止め、町の金持ちから金を取り立て、警官7人を処刑したが、町の人々に好かれていた巡査部長は殺さなかった。夜には町の人々と踊りの会を開き、映画まで上映させたという。1926年11月には約100人で295人の兵を退けた。一方、1927年6月に大きな町モソロを襲ったときは、300人の町民に撃退されている。
1930年、恋人のマリア・デイア、通称マリア・ボニータ(美しいマリア)が一団に加わった。二人のあいだには1932年に娘が生まれ、娘は親類に預けられて育った。1935年には、写真家ベンジャミン・アブラアンがランピアンの一団を撮影している。フィルムは警察に没収されたが、1957年に見つかり、傷みながらも一部の場面が残った。
1938年7月28日、ランピアンの一団はセルジッペ州ポソ・レドンドのアンジコス農場の隠れ家で、味方の一人の裏切りによって警察隊の待ち伏せを受けた。夜明けに機関銃を持った部隊が襲いかかり、ランピアンとマリア・ボニータ、それに9人の仲間が死んだ。切り落とされた首は見せしめとしてさらされ、のちにバイーア州の州都サルヴァドールの博物館に置かれた。首が埋葬されたのは30年以上たった1969年のことである。
ランピアンが死んだとき、独立した盗賊の頭目は彼一人しか残っていなかった。それから2年のうちに残りの者たちも殺されるか投降し、カンガッソは過去のものになった。ランピアンは残虐な無法者だったが、虐げられた奥地の人々のあいだでは、権力に逆らった英雄として語り継がれた。アメリカのジェシー・ジェームズやメキシコのパンチョ・ビリャになぞらえられ、その姿はいまもブラジル北東部の民芸品や歌に繰り返し現れる。