人物

ラ・ヴォワザン

Catherine Monvoisin (La Voisin)
1640年頃 – AD1680年2月22日(享年40・推定)
フランス王国重要度 2

概要

ルイ14世の時代のパリの占い師。貴族に媚薬や毒薬を売り黒ミサを仕立てたとして火刑になり、宮廷を揺るがした毒薬事件の中心人物となった。

所属

フランス王国

本文

ラ・ヴォワザンと呼ばれたカトリーヌ・モンヴォワザン(旧姓デエ)は、1640年ごろに生まれたとされる。若いころのことはほとんど分かっていない。本人の供述では、9歳で占いの手ほどきを受けた。夫のアントワーヌ・モンヴォワザンはパリのポン・マリーで宝石と絹を商っていたが、商売に失敗し、彼女が手相見と人相見で一家を養うようになった。

占いの客の願いは、だいたい似ていた。だれかに愛されたい、遺産を継ぐためにだれかが死んでほしい、別の人と結婚するために夫や妻がいなくなってほしい。ラ・ヴォワザンはその願いをかなえる手立てを売るようになる。はじめは聖人の教会への参拝を勧め、やがてお守りや媚薬、さらに悪魔に祈る黒ミサの手配へと商売を広げた。助産婦として非合法の堕胎も手がけていたとされる。

1660年代の末には、彼女はパリでいちばん名の知れた占い師になっていた。客には宮廷の貴婦人が多く、ソワソン伯爵夫人オランプ・マンシーニやブイヨン公爵夫人、名将リュクサンブール公の名も挙がっている。郊外の屋敷では昼に客を迎え、夜は庭でバイオリンを鳴らして上流の人々をもてなした。金の鷲を刺繍した深紅のビロードの衣装を、1500リーヴルで仕立てさせたという話も残る。

やがて彼女は、媚薬だけでなく、人を殺すための毒も売るようになったとされる。17世紀のヨーロッパでは毒殺が一種の技術になっており、パリには占い師と毒薬の売り手の網の目が広がっていた。1676年には父と兄弟を毒殺したブランヴィリエ侯爵夫人が処刑され、毒への恐れが人々の間に広がっていた。相続を早めるための毒は「相続の粉」と呼ばれ、宮廷の噂話にものぼった。数十年前のイタリアでは、毒薬売りのジュリア・トファーナが同じような商売で知られていた。

1679年1月、占い師のマリー・ボスらが捕らえられ、毒薬を扱う仲間の存在が明るみに出た。ボスが酒の席で、あと何件か毒殺の仕事をすれば引退できると口を滑らせたのがきっかけだったと伝えられる。3月12日、ラ・ヴォワザンはノートルダム・ド・ボンヌ・ヌーヴェル教会のミサの帰りに逮捕された。身柄はパリ東郊のヴァンセンヌの城塞に移された。ルイ14世は特別の法廷を設けて捜査を命じ、その審理は火を灯した部屋で開かれたことから「火刑裁判所」と呼ばれた。警察長官ラ・レニーの記録によれば、彼女は飲酒癖を利用されながら取り調べを受けたが、拷問は実際には加えられなかったとされる。彼女は毒を売ったことや宮廷の何人かの客の名は認めたが、黒ミサや王の愛妾との関わりについては最後まで口を閉ざした。有力者の名を口にされるのを恐れたためだと考えられている。

1680年2月、ラ・ヴォワザンは魔術の罪で有罪となり、パリのグレーヴ広場で火刑に処された。刑場へ向かう途中で司祭を押しのけ、火刑台では積まれた藁を払いのけようとしたと伝えられる。処刑の直前の彼女を見た書簡作家のセヴィニェ夫人は、その様子を手紙に書き残している。

事件は彼女の死で終わらなかった。その年の夏、娘のマルグリットが、王の公式の愛妾モンテスパン夫人が母の客で、王の愛を保つために黒ミサや媚薬を頼み、ついには王の暗殺まで相談していたと供述したのである。ほかの被告の証言もこれに沿うものだった。王は審理を打ち切り、記録を封印させ、残る被告を裁判にかけずに王の封印状で各地の城砦に終身閉じ込めた。モンテスパン夫人の関与がどこまで本当だったのかは、いまも歴史家の間で議論がある。この毒薬事件では数百人が取り調べを受け、数十人が処刑されたとされる。王権の絶頂にあったヴェルサイユの宮廷の裏側を照らし出した出来事として、ラ・ヴォワザンの名は小説や映画で繰り返し取り上げられてきた。

動画(1)

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