人物

エルフェゴ・バカ

Elfego Baca
AD1865年2月10日 – AD1945年8月27日(享年80)
アメリカ合衆国重要度 2

概要

アメリカ西部ニューメキシコの保安官・弁護士。1884年、牧童の一団を相手に33時間の撃ち合いを生き延びた。

所属

アメリカ合衆国

本文

エルフェゴ・バカは、19世紀末のアメリカ南西部ニューメキシコで、保安官、弁護士、政治家として生きたヒスパニック系の人物である。1884年、たった一人で数十人のカウボーイと33時間にわたって撃ち合い、生き延びた「フリスコの撃ち合い」で西部の伝説になった。

1865年、ニューメキシコ準州のソコロに生まれた。当時のニューメキシコは、米墨戦争の結果1848年にメキシコからアメリカへ移ったばかりの土地で、古くからのスペイン系・メキシコ系の住民と、東から入ってきた英語を話す牧場主やカウボーイとのあいだに摩擦が絶えなかった。幼いころ一家はカンザス州トピーカに移ったが、1880年に母が死ぬと、父とともにニューメキシコのベレンに戻った。父はそこで町の保安官を務めた。

1884年、19歳のバカは銃を手に入れ、ソコロ郡の保安官助手を名乗るようになった。正式に任命されたのか、バッジを買っただけなのかは、はっきりしない。その年の10月、彼はミドル・サンフランシスコ・プラザ(のちのフリスコ、現在のリザーヴ)の村で、酔って騒いでいたカウボーイのチャーリー・マッカーティを逮捕し、銃を取り上げた。

マッカーティの仲間は取り返そうと押しかけ、もみ合いの中で、ある牧場の現場頭が乗っていた馬が撃たれて倒れ、その下敷きになった男が死んだ。その後、治安判事に取り調べのため連れて来るよう頼まれた牧場主バート・ハーンが、バカのいる日干し煉瓦の建物の戸を破って出てくるよう命じると、中から撃たれた弾が腹に当たり、ハーンは死んだ。こうしてバカは建物に立てこもり、集まったカウボーイたちと撃ち合いになった。人数は村人の証言では40人ほど、バカ自身はのちに80人はいたと語っている。

カウボーイたちは4000発を超える弾を撃ち込んだといわれるが、バカには一発も当たらなかった。建物の床が地面より少し低かったため、伏せた彼には弾が届かなかったらしい。撃ち合いはおよそ33時間続き、地元の有力者フランシスキート・ナランホの説得でバカが投降して終わった。翌1885年、彼は殺人の罪で裁かれたが、400を超える弾痕のある戸が証拠として出され、無罪となった。

その後のバカは、法の側の人生を歩んだ。ソコロ郡の保安官になると、手配中の男たちに、期日までに出頭しなければ抵抗する意思があるとみなし、見つけしだい撃つ、という手紙を送り、多くが自分から出頭してきたという。1888年から連邦保安官を務めたのち法律を学び、1894年に弁護士の資格を得た。郡書記、町長、教育長、地方検事を歴任し、メキシコ革命のさなかには、メキシコのウエルタ政権のアメリカでの代理人も務めた。75歳の誕生日には、弁護士として殺人罪の被告30人を弁護し、刑務所に行ったのは1人だけだったと語っている。

酒好きで、口が過ぎ、女性にも弱かったと伝記作家は書いている。パンチョ・ビリャの拳銃を盗んで賞金をかけられたという話や、殺人で訴えられたからすぐ来てくれという依頼人の電報に、目撃者を3人連れてすぐ行くと返したという話は、確かめられない伝説である。1945年に80歳で死んだあと、ディズニーは1958年からテレビドラマ『エルフェゴ・バカの九つの命』を作り、彼をアメリカで最初のヒスパニック系の大衆的英雄にした。主演はロバート・ロッジアで、撮影の多くはニューメキシコで行われた。ディズニーは民族の対立には触れず、彼を西部の英雄の一人として描いた。英語を話す牧場主たちとメキシコ系の住民との緊張の中で起きたフリスコの撃ち合いは、画面の上では勇敢な保安官の武勇伝になったのである。

バカはニューメキシコでは今も地元の英雄として語られ、1995年にはアメリカ下院でその生涯をたたえる演説が行われた。ならず者を一人で相手にした19歳の保安官助手が、のちに法廷で人を弁護する側に回り、町の役職を務め上げたという生涯は、西部劇の型に収まりきらない面を持っている。

動画(1)

驚きと笑い!世界の文化風習のルーツ【てるてる坊主・保安官バカ・置いてけぼりの元ネタ】非株式会社いつかやる風習のルーツ三選の一つとして33時間の撃ち合いを語る
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1865年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →