人物

千葉栄次郎

Chiba Eijiro
1833年 – 1862年(享年29・推定)
水戸藩重要度 2

概要

幕末の剣客。北辰一刀流を開いた千葉周作の次男で「千葉の小天狗」と呼ばれ、名だたる剣士に勝ち越したが30歳で没した。

本文

千葉栄次郎は、北辰一刀流を開いた千葉周作の次男である。栄次郎は通称で、諱は成之。1833年(天保4年)ごろの生まれとされる。父の道場・玄武館は江戸の神田お玉が池にあり、斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館と並んで「江戸三大道場」に数えられた。栄次郎は幼いころから父に学び、若くして奥義を極めて「千葉の小天狗」と呼ばれた。18、9歳で早くも名人と噂されたという。北辰一刀流は、周作が北辰夢想流と一刀流を合わせて開いた流派で、神秘めいた教えを省き、竹刀と防具を使った打ち合いで理づめに技を教えた。免許の段階を少なくして、修業の道筋を分かりやすくしたことでも知られる。江戸の剣術界では「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と言われ、玄武館は技の道場として多くの門弟を集めた。栄次郎はその看板を背負う若者だった。

その強さは、残された試合の記録で確かめられる。19歳のとき、練兵館の斎藤歓之助と立ち合って勝った。歓之助は斎藤弥九郎の三男で「鬼歓」と恐れられた剣士で、栄次郎と同じ年の生まれだった。1849年(嘉永2年)には、津藩と岡藩の江戸藩邸で続けて試合が行われ、直心影流の島田虎之助、鏡新明智流の桃井春蔵らを含む18人と立ち合って、全員に勝ち越した。勝敗を集計すると、勝率はおよそ9割になる。

栄次郎には、一度負けた相手には二度と負けないという話がある。同じ席で、直心影流の柿本清吉と三本勝負をして全敗した。栄次郎はしばらく考え込み、もう一度三本勝負を申し込むと、今度は柿本が使った技と間合いをそのまま使って全勝した。柿本は数日後に改めて立ち合ったが、技はもう栄次郎のものになっていて歯が立たず、のちに「名人というべき人であろう」と語ったという。1853年に小野派一刀流の石山孫六に負け越したときも、翌年の再戦で勝ち越している。1851年には加藤田神陰流の武藤為吉にも負け越しており、無敗だったわけではない。負けた相手を研究し尽くして次に勝つところに、栄次郎の本当の強さがあった。

のちの山岡鉄舟が玄武館で「鬼鉄」と呼ばれていたころ、中條金之助らと十人余りで栄次郎に挑んだことがある。疲れさせて最後に鉄舟が仕留めるつもりだったが、栄次郎の竹刀が激しい打ち込みで二度も鋲元から折れても勢いは落ちず、逆に挑んだ側が降参した。中條は、栄次郎の稽古は「激烈を極め」たと回想し、それに耐えた弟子たちが明治になって剣術の実力者になったと書いている。

一方で、型破りなところもあった。父の代わりに水戸藩の藩校・弘道館へ指南に行ったとき、竹刀を頭上で回したり股の下をくぐらせたり、空へ放り上げたりして相手を翻弄し、藩士たちを怒らせて詫びることになった。のちの剣道史では「曲遣いの元祖」と批判されたが、対戦したことのある武藤為吉は「そのような遣われ方をする方が未熟である」とかばっている。何度も試合を申し込んできた鉄人流の牟田高惇を、理由をつけて断り続け、日記で「腰抜け」と罵られたという話も残る。

1853年、栄次郎は父とは別に水戸藩に召し抱えられ、馬廻組などを経て1862年(文久2年)1月に大番頭に昇った。ところがその翌日に急死した。30歳だった。父の周作はその6年前に世を去っており、玄武館は大きな柱を相次いで失った。

栄次郎の名は、新選組や坂本龍馬ら幕末の志士ほどには知られていない。坂本龍馬が学んだのは、周作の弟・千葉定吉の道場である。京橋桶町にあったこの道場は「小千葉」と呼ばれ、定吉の子の重太郎や娘の佐那も剣の腕で知られた。栄次郎は彼らの従兄にあたる。明治維新の前に世を去ったため、その強さは試合の記録と、同時代の剣客たちの証言の中に残った。長男の周之介は1883年、山岡鉄舟らの後見で玄武館を東京・神田に再興している。

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