浅山一伝斎
概要
剣術・居合・棒術・柔術・鎌術を含む総合武術、浅山一伝流の流祖とされる人物。実像には諸説が多い。
本文
浅山一伝斎は、剣術・居合・棒術・柔術・鎌術などを一つの体系にまとめた総合武術、浅山一伝流の流祖とされる人物である。名は重晨と伝えられ、三五郎、内蔵助とも名乗ったという。ただし、本人の生涯を伝える同時代の史料はほとんど残っていない。伝わっている話の多くは、流派の側の伝承か、江戸時代中期以降に書かれた武芸書によるものである。
生没年もはっきりしない。流派の伝えでは貞享4年(1687年)の正月に78歳で没したとされ、逆算すると1610年頃の生まれになる。一方で、流派の始まりを戦国時代の16世紀後半に置く伝えもあり、二つは年代が合わない。どちらが正しいかを決める手がかりは乏しい。
師が誰だったかにも諸説がある。江戸時代の武芸書『撃剣叢談』や『本朝武芸小伝』は、居合の一伝流を開いた丸目主水正を遠祖とし、その弟子から学んだと記す。別に、真貫流を開いた奥山左衛門大夫忠信を師とする説や、上泉伊勢守信綱の門人である中村泉十郎から神陰流を学んだとする説もあった。しかし近年は、これらの記事は浅山一伝一存という別の人物が開いた居合の一伝流のことで、江戸時代の著者とそれに拠った後世の研究者が二人を混同したとする見方が有力になっている。
江戸でこの流派を広めた森戸家の伝えは、まったく違う話をする。一伝斎は師を持たず、丹波国の浅山不動尊(現在の兵庫県丹波市氷上町)にこもって自ら技を悟ったというのである。少年のころ不動明王を夢に見て悟りを開いた、という話も伝わる。これらは開祖を神秘的に語る武術の流派によくある伝承で、そのまま事実とは受け取れない。それでも不動尊の護摩堂には、福知山藩士が掲げた額が今も残り、流派とこの地の結びつきの深さを伝えている。
流派の中身は幅が広い。刀を使う剣術と居合のほか、棒術、鎌術、素手の柔術、捕手や捕縄まで含んでいた。刀だけでなく、手元にある道具や素手でも戦い、相手を取り押さえる技までをひとまとめにした、近世初期の総合武術の姿をよく残している。同じ17世紀前半には宮本武蔵が二刀の兵法を説いており、武術が実戦の技から流派として伝える芸へ移っていく時期にあたる。
流派が大きく広がったのは江戸時代の中ごろからである。一伝斎の系統に連なる浅山一伝斎重行(重晨とは別人とされる)の門人で、館林藩士の森戸三太夫朝恒が江戸に道場を開くと、浅山一伝流の名が知られるようになった。森戸家は代々この流派を継ぎ、武術には珍しい家元の制度をとった。参勤交代で江戸に詰めていた諸藩の藩士に教えたため、技は彼らが国元へ帰るとともに全国の藩へ散っていった。森戸金制が目黒不動に掲げた奉納額には、1600人を超える門弟の名が記されていたという。
広がった先では、それぞれの土地で分かれて伝えられた。水戸藩では柔術が伝わり、藩校の弘道館でも教えられた。仙台藩にも独自の系統が残り、久留米藩士の津田教明と子の正之は津田一伝流を開いた。浅山一伝流を学んだうえで新しい流派を起こした者も多く、一伝流から派生した流派や技を取り入れた流派は数え切れない。
明治になると、武士の身分とともに多くの流派が消えていったが、浅山一伝流は形を変えて生き延びた。明治前期に警視庁が定めた警視流では、木太刀の形の一本と立居合の一本が浅山一伝流から採られている。大倉直行が伝えた体術の系統は、門人たちを通じて第二次世界大戦後に広まった。今日も、剣術・居合・鎌を中心に伝える系統、柔術を中心に伝える系統、広島に残った棒術と捕縄術の系統などが知られる。
流祖の実像は、伝承と混同の霧の向こうにある。確かなのは、その名を掲げた流派が江戸時代を通じて多くの藩士に学ばれ、いまも稽古が続いているということである。一人の開祖の伝記よりも、名もない師範と門弟が数百年にわたって技を受け渡してきた歴史のほうが、この流派の本体だと言える。