三ノ宮卯之助
概要
武蔵国三野宮村出身の江戸の力持ち。興行で諸国を回り、名を刻んだ力石が各地の神社に残る。
本文
三ノ宮卯之助は、江戸時代の後期に力持ちの芸で名を売った人である。生まれは1807年(文化4年)、武蔵国岩槻領の三野宮村で、いまの埼玉県越谷市にあたる。卯年の生まれで、名前は「三野宮村の卯之助」という意味にすぎず、三ノ宮は名字ではない。村は日光街道の宿場・越ヶ谷宿に近い農村で、卯之助は武士でも相撲取りでもない、ただの村の若者だった。
地元の言い伝えでは、卯之助は生まれつき体が弱く、小柄で力もなかったため、周りから馬鹿にされていたという。それが一念発起して稽古を重ね、やがて頭角を現したと伝えられる。22歳のとき、近くの瓦曽根村の最勝院で、70貫(約260キロ)の力石を持ち上げたとされる。1貫は3.75キロで、ふつうの若者が力比べで持ち上げる石が数十キロから百キロ余りだったことを思えば、桁の違う重さである。
力石とは、神社や寺の境内に置かれた大きな石のことである。江戸時代の村では、若者たちがこれを持ち上げて力を比べ、持ち上げた者の名や重さを石に刻んで奉納することがあった。祭りや農作業の合間の娯楽であり、一人前の働き手であることを示す場でもあった。卯之助の名は、この力石の文化の中から出てきた。
やがて卯之助は近くの力自慢を集めて一座を組み、力持ちの芸を見せて諸国を回る興行を始めた。江戸の町では、米俵や大石を持ち上げる力持ちは見世物の一つとして人気があった。力持ちの芸には、米俵を何俵も重ねて担ぐもの、臼や大石を頭の上に差し上げるもの、仰向けに寝て足の裏で重い物を支えるものなどがあり、見物人は木戸銭を払ってそれを眺めた。卯之助の得意芸は「人馬舟持ち上げ」で、人が乗った馬を舟ごと持ち上げてみせるものだったと伝えられる。
1833年(天保4年)6月には、将軍徳川家斉の前で力持ちの芸を披露した。このときの上覧の番付では、卯之助は最高位の大関に置かれている。将軍の前で芸を見せることは、庶民の芸人にとってこの上ない名誉だった。家斉の時代には江戸城で相撲の上覧も行われており、力の芸は武家にも好まれた。興行の旅は、はじめは関東の周りが中心だったが、30代になると甲信越から関西にまで広がった。江戸で大坂の力持ちを破り、日本一の力持ちと呼ばれるようになったという。
卯之助の足跡は、いまも各地に残る力石でたどることができる。地元の三野宮香取神社や越ヶ谷久伊豆神社のほか、江戸深川の富岡八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮、信濃の諏訪大社、川崎大師、江ノ島、播磨の魚吹八幡神社、大坂の天満宮などに、卯之助の名を刻んだ石がある。どれも卯之助が持ち上げたと伝えられるもので、興行で訪れた先々で奉納していったとみられる。
なかでも中山道の宿場町・桶川の稲荷神社にある石は、「大盤石」と刻まれ、推定610キロと重さでは日本一ともいわれる。「嘉永5年2月」の銘があり、1852年、卯之助が40代半ばのころのものである。人がどのようにしてこれほどの石を持ち上げたのか、その芸の細かなところは伝わっていない。
最期は突然だった。1854年8月1日(嘉永7年7月8日)、興行主の宴席に招かれた帰り道に急に亡くなった。数えで48歳である。急な病だったとも、商売敵の企みによって毒を盛られたともいわれるが、確かなことは分からない。墓のありかも知られていない。戒名は「到殺清紳信士」と伝わる。
卯之助の名が忘れられずに残ったのは、本人が刻ませた力石が、関東から関西まで散らばって境内に置かれ続けたからである。記録の少ない庶民の芸人の生涯を、石が語り継いでいる。地元の越谷では郷土の偉人として紹介され、三野宮の香取神社などでは、いまも卯之助の名を刻んだ石を見ることができる。