ウィトルウィウス
概要
カエサルの軍の技師で、アウグストゥスに『建築十書』を献じた。建築は「強・用・美」を備えよ、と。人体の比例を円と正方形に収める記述を、レオナルドが絵にした。
所属
ローマ関わったできごと(1)
ウィトルウィウス『建築十書』BC25年頃 · 著者本文
古代ローマの建築家で、現存する唯一の古代の建築書『建築十書』の著者。生まれた年も土地もはっきりしない。紀元前80年から70年頃の生まれとみられ、出身地はイタリア中部のファーノ、北のヴェローナなどの説がある。名前もマルクス・ウィトルウィウス・ポッリオと伝わるが、ポッリオの部分が確かかどうかは疑わしい。同時代の人々が彼について書いたものはほとんどなく、私たちが知ることの大半は、彼が自分の本に書いた言葉に頼っている。

それによれば、彼は若いころガイウス・ユリウス・カエサルの軍に仕え、投石機や弩砲といった攻城兵器を作り、修理した。カエサルの死後は、その養子オクタウィアヌス、のちのアウグストゥスのもとで同じ仕事を続けた。アウグストゥスの姉オクタウィアの推薦で年金を受けるようになり、暮らしの心配なく本を書けるようになった、と感謝を記している。自分の姿については、生まれつき背は低く、年齢で顔はやつれ、病で力も衰えた、と書く。だから人の目を引く名声ではなく、この本によって後世に認められたい、という願いが行間からにじむ。
建築家として携わったと自ら記しているのは、アドリア海沿いの町ファヌム(いまのファーノ)のバシリカ(集会や裁判に使う大きな建物)だけで、その設計を第5巻で説明している。建物は残っておらず、場所も確かめられていない。

『建築十書』は、アウグストゥスが国じゅうに公共の建物を建てていく時代に、皇帝に献じられた(ウィトルウィウス『建築十書』)。書かれたのは紀元前30年から20年頃とみられる。全10巻は、建築家の素養、建材、神殿、公共建築、住宅、床と壁の仕上げ、水、日時計と天文、機械と兵器と、建てることにかかわるほぼすべてを扱う。
第1巻で、彼は建築が備えるべき三つの条件として、強さ、用、美を挙げた。壊れない堅固さ、使う目的にかなうこと、見て美しいこと。この三つはその後2000年にわたって建築論の出発点となり、いまも建築を学ぶ者が最初に出会う言葉の一つである。建築家に求める素養も幅広い。文章が書け、図が描け、幾何学、歴史、哲学、音楽、医学、法律、天文学を知るべきだという。音楽は、投石機の綱の張りを音の高さで揃えるために要る。医学は、町を建てる土地の空気や水が体に良いかどうかを見分けるために要る。どの知識も実際の仕事に結びつけて説かれている。

第3巻では、神殿の各部の比例は人体の比例にならうべきだとして、手足を広げた人の体は、へそを中心とする円と、正方形の両方にぴたりと収まると書いた。この一節を、1490年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチが一枚の素描にした。いわゆる「ウィトルウィウス的人体図」で、ルネサンスの人間観を象徴する図として世界中で知られている。
第8巻では水道を扱い、鉛の管は体に害があるとして、陶製の管を勧めた。鉛を扱う職人の顔色の悪さを見よ、と彼は書いている。第9巻の序では、王冠に混ぜ物がないかを確かめよと命じられたアルキメデスが、湯船に入ったときに溢れる湯を見て方法を思いつき、裸のまま「わかった」と叫んで通りを走った、という有名な話を伝えている。この逸話の出典はこの本である。第10巻には、水車、揚水のポンプ、走った距離を測る車といった機械の仕組みが並ぶ。

一方で、この本は当時のローマで実際に起きていた変化をあまり映していない。手本はギリシアの神殿の理論で、火山灰を混ぜて固めるモルタルには触れているものの(ローマのコンクリート)、のちのハドリアヌスのパンテオンのような大きなアーチやドームを生んだ技術は、ほとんど扱われていない。同時代の建築家たちがこの本を参考にした形跡もはっきりせず、引用したのは大プリニウスなどわずかだった。
それでも写本は中世の修道院で写し継がれた。15世紀の初め、人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニがスイスの修道院でよい写本を見つけたことが、再発見として語られる。レオン・バッティスタ・アルベルティはこの本を手本にしながら批判もして、自らの建築論を書いた。15世紀の後半には印刷され、16世紀には各国語に訳されて、ルネサンス以後の建築家にとって欠かせない古典になった(イタリア・ルネサンスの盛期)。

彼が建てたと分かっている建物は何一つ残っていない。紀元前15年頃までには死んだとみられるが、それも確かではない。名声ではなく本で残りたいという願いは、本人の想像をはるかに超えるかたちで叶った。