人物

サイモン・クズネッツ

Simon Kuznets
AD1901年4月30日 – AD1985年7月8日(享年84)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

ロシア帝国のピンスク(現ベラルーシ)生まれ。ハリコフで学び、革命後の混乱の中で統計局に勤めた。1922年、アメリカへ移住。コロンビア大学で学位。全米経済研究所で、長期の経済統計の系列を組み立てた。1934年、議会に国民所得の推計を提出。第二次大戦中は戦時生産の計画に関わった。経済成長と所得格差の関係を論じた「クズネッツ曲線」で知られる。彼自身は、その仮説を暫定的なものとして提示していた。1971年ノーベル経済学賞。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

国民所得の発明AD1934年 · 作った

本文

サイモン・クズネッツ(ロシア名セミョーン・クズネツ)は1901年4月30日、ロシア帝国のピンスク、いまのベラルーシの町に、ユダヤ人の家の子として生まれた。父アブラハムは毛皮の商人だった。1907年、父は先にアメリカへ渡った。家族を呼び寄せるつもりだったが、第一次世界大戦がそれを阻み、一家は十数年のあいだ離ればなれに暮らした。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

サイモンはウクライナのハリコフ(いまのハルキウ)で育ち、1918年に商業の大学に入った。革命の直後で、大学は混乱のさなかにあった。1921年、20歳の彼はハリコフの労働統計の役所で働き、ウクライナの工場労働者の賃金を統計で分析する最初の論文を書いた。データを集め、つなげて長い系列にし、長い時間の変化を見る。生涯の方法は、ここで決まった。

1922年、彼は兄とともにアメリカへ渡り、15年ぶりに父と会った。ニューヨークのコロンビア大学で、1923年に学士、翌年に修士、1926年に博士の学位を取った。わずか4年である。指導したのは、景気の波を研究していたウェズリー・ミッチェルだった。ミッチェルは、理論から結論を導く前に、まず経済を測らなければならないという立場をとり、全米経済研究所(NBER)を作った一人だった。

1927年、クズネッツはその研究所に入り、アメリカ経済の長い統計の系列を組み立て始めた。1929年に始まった世界恐慌のなかで、政府は困っていた。経済がどれだけ縮んだのか、誰にも正確には分からなかったのである。国全体で一年にどれだけの所得が生まれたかという数字は、まだ存在しなかった。彼は産業ごとのばらばらの記録、国勢調査、税の記録、企業の報告を集めてつなぎ合わせ、国全体の所得を推計した。

世界恐慌に関わる図版:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927
世界恐慌Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

1934年、33歳の彼は、上院に報告書『国民所得 1929〜1932年』を出した(国民所得の発明)。大恐慌の3年で、国民所得はおよそ半分近くまで落ち込んでいた。数字は議会と政府を動かし、のちの政策の土台になった。

同じ報告書の中で、彼はこう書いている。ここで定義した国民所得の大きさから、一国の福祉を推し量ることはほとんどできない。この一文は、のちに何度も引かれることになる。数え方を作った当の本人が、その限界をまっさきに書きつけていたのである。家庭の中の仕事は数えられず、所得が誰の手に渡ったかも分からず、何のための生産かも問わない。彼はそれを承知していた。

サイモン・クズネッツの肖像
サイモン・クズネッツの肖像Wikimedia Commons Federalreserve · Public domain

何を数え、何を数えないかについても、彼は考え続けた。兵器や広告への支出のように、人々の暮らしを直接豊かにしないものは、福祉の尺度としての国民所得から外すべきだとさえ考えていた。だが戦争が近づくと、政府の支出をまるごと含める考え方が主流になり、彼の慎重な考えは脇に置かれた。

第二次世界大戦が始まると、彼は1942年から戦時の生産を計画する役所で統計を担った。軍が求める兵器や物資の量と、国が実際に作れる量のあいだには大きな開きがあった。彼らの推計は、軍の要求がとても実現できないものであることを示し、軍から激しく反発された。それでも報告は採り入れられ、生産の計画は現実に合うように直された。

戦後は、ペンシルヴェニア大学、ジョンズ・ホプキンズ大学、ハーヴァード大学で教えた。同時に、各国が国民所得の統計を整えるのを手伝った。インド、イスラエル、台湾、韓国、そして日本でも、その枠組みが使われた。

彼の大きな主題は、経済の成長だった。十数か国について100年を超える統計の系列を作り、比べる。計算機のない時代に、彼は途方もない量の数字を手で整理した。その成果は『近代経済成長』(1966年)などの大著にまとめられた。

1955年、アメリカ経済学会の会長として行った講演で、彼は一つの仮説を出した。経済が発展すると、所得の格差は初めは広がり、やがて縮む。農業から工業へ人が移る途中では差が開き、工業が主流になり、民主化や労働運動や税と福祉による分け直しが進むと差は縮む。グラフにすると逆さのU字になるこの形は、のちに「クズネッツ曲線」と呼ばれた。

ただ、彼自身はこの仮説にはっきり留保をつけていた。この論文はおそらく5パーセントの実証と95パーセントの推測からなり、その推測の一部は願望に汚されているかもしれない、と講演で述べている。それでもこの仮説は、成長すれば格差はひとりでに縮む、という主張の裏づけとして、何十年も政策の議論で使われた。

1970年代以降、豊かな国々で格差は再び広がった。2013年、フランスの経済学者ピケティは『21世紀の資本』で、20世紀半ばに格差が縮んだのは、成長の自然な結果ではなく、二つの世界大戦による資本の破壊、大恐慌、そして戦後の高い累進税と社会保障によるものだったと論じた。ただしピケティはクズネッツを責めてはいない。クズネッツの作った統計の系列を、さらに長く、広く延ばしたのがピケティの仕事であり、クズネッツ自身が仮説を暫定のものと断っていたことも書いている。

1971年、クズネッツはノーベル経済学賞を受けた。経済成長を実証の裏づけをもって解き明かし、経済と社会の構造と発展の過程に新しい理解をもたらした、というのが授賞の理由だった。

彼はひどく寡黙な人だったと、多くの人が書いている。講義は単調で面白くなかったという学生の回想もある。だがその下からは、医師や弁護士の所得を共同で研究したミルトン・フリードマン、のちにノーベル賞を受けるロバート・フォーゲル、所得と幸福の関係を問うたリチャード・イースタリンら、多くの経済学者が育った。

1985年7月8日、クズネッツはマサチューセッツ州ケンブリッジで死んだ。84歳だった。いま世界のほぼすべての国が、国内総生産(GDP)を発表している。その枠組みは、彼が1930年代に組み立てたものの直系の子孫である。そして彼が1934年に書いた警告の一文も、その数字が使われるたびに、くり返し引かれ続けている。引かれながら、十分には生かされていない。

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