人物

レオ・ベークランド

Leo Baekeland
AD1863年11月14日 – AD1944年2月23日(享年80)
ベルギー重要度 4

概要

ヘントの靴直しの子。父は読み書きができず、息子を靴屋にしたがった。母が反対し、夜学に通わせた。21歳で博士号。1889年、新婚旅行でアメリカへ渡り、そのまま住んだ。暗室でなくても扱える印画紙ヴェロックスを発明し、コダックのイーストマンに売った。額は自分の想定の何倍かだったと後に語っている。その金で自宅に研究室を建て、1907年、ベークライトに至った。晩年は隠遁的になり、缶詰ばかり食べて過ごしたと伝えられる。

関わったできごと(1)

ベークライトと合成樹脂AD1907年 · 作った

本文

レオ・ヘンドリック・ベークランドは1863年11月14日、ベルギーの古い織物の町ヘントに生まれた。父カレルは靴の修理職人で、読み書きができなかった。母ロザリアは家政婦として働いていた。

レオ・ベークランド(1916年)
レオ・ベークランド(1916年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

13歳のとき、父は息子を靴屋の見習いに出した。それが子のためになる道だと父は考えていた。母はこれに強く反対し、彼女が押し切って、レオは昼は働き、夜は学校に通うことになった。私の人生を決めたのは母の意志だった、と彼はのちにくり返し語っている。

少年は飛び抜けてできた。17歳で奨学金を得てヘント大学に入り、21歳で化学の博士号を最優等で取った。20代半ばで同じ大学の准教授になり、恩師の娘セリーヌ・スワーツと結婚した。

レオ・ベークランド(1906年頃)
レオ・ベークランド(1906年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1889年、彼は旅行の奨学金を得て、新婚の妻とともにアメリカへ渡った。そこで写真の材料を扱う会社の経営者に会い、仕事を持ちかけられた。彼はベルギーに戻らず、大学の職を捨ててアメリカに住みついた。恩師でもある妻の父はひどく怒ったと伝えられる。

数年勤めたのち、彼は独立した。目をつけたのは印画紙である。写真は写真の発明から半世紀でずいぶん身近になっていたが、当時の印画紙は日光でしか焼き付けられなかった。日に長く当てて像が浮かぶのを待つ。曇りの日も冬も、夜も仕事にならない。ベークランドは、ガス灯のような人工の光でも焼き付けられ、現像して像を出す、感度の高い印画紙を作った。これなら暗室でいつでも大量に作業ができる。1893年、彼は会社を作ってこの紙を売り出し、「ヴェロックス」と名づけた。

『タイム』誌表紙(1924年9月22日号)
『タイム』誌表紙(1924年9月22日号)Wikimedia Commons TIME Magazine · Public domain

初めは売れず、会社は破産しかけた。流れが変わったのは、日光に頼らない紙を求めていた写真の現像業者たちが、大量に注文を出し始めてからだった。手軽なカメラが広まり、素人が撮った写真を大量に焼き付ける需要が生まれていたのである。

1899年、彼はこの事業を写真の大会社コダックに売り込みに行った。彼自身の回想によれば、5万ドルを求めるつもりで、2万5000ドルまでなら下げてもよいと道中で考えていた。ところが部屋に入るなり、社長のジョージ・イーストマンのほうから75万ドルでどうかと切り出された。額については100万ドルという説もあり、回想と伝記で数字は揺れている。いずれにせよ、彼の思っていたよりはるかに大きな額だった。

35歳の彼は、もう働かなくても暮らせる身になった。その金でニューヨーク州ヨンカーズの丘の上に屋敷を買い、そこに研究室を建てた。そして、自分の好きな問題を選んだ。フェノールとホルムアルデヒドの反応である。

この反応はすでに1872年、ドイツの化学者バイヤーが報告していた。だが反応は激しく、できるのはもろくて溶けもせず形にもならない塊で、多くの化学者が手を引いていた。ベークランドがあえてそこへ向かったのは、天然の樹脂シェラックの代わりを探していたからだ。シェラックは東南アジアの虫の分泌物から作られ、電気を通さない材料として欠かせなかったが、電気の時代が来て足りなくなっていた。代わりが作れれば、大きな市場が待っている。

彼が持ち込んだのは制御だった。自ら設計した圧力釜で、圧力をかけて水が沸かないようにし、より高い温度で、段階を追って反応させる。反応は三つの段階を通る。まだ溶ける段階、半ば固まった段階、そして二度と溶けない段階である。途中の段階で止めて型に流し込み、そこで熱と圧力をかけて最後まで固める。こうすれば、好きな形に成形できる。

1907年6月18日、彼の実験ノートに成功の記録が残っている。7月に特許を出願し、1909年2月、化学者たちの集まりで発表した。会場には試料をどっさり持ち込み、参加者に配ったという。彼はこの物質を、自分の名からベークライトと名づけた(ベークライトと合成樹脂)。天然のものをまねたのではなく、人の手で一から作った最初の合成樹脂、つまり最初の本格的なプラスチックの一つである。

1910年、彼は自ら会社を興し、特許を守るために多くの訴訟を戦った。宣伝の文句は「千の用途を持つ素材」。電気の絶縁部品、電話機、ラジオの箱、万年筆、ビリヤードの球、装身具、鍋の取っ手。自動車と電気の時代が、この新しい材料を飲み込んでいった。1924年、彼は『タイム』誌の表紙を飾った。

彼はきわめて几帳面な人で、生涯、日記と実験ノートを細かくつけ続けた。数十冊が残り、そこには実験だけでなく天気や体重や食事、その日の気分まで書かれている。一方で社交を嫌った。1939年、彼は会社を化学の大企業ユニオン・カーバイドに売り、しだいに人と会わなくなった。フロリダの屋敷にこもり、缶詰ばかり食べていたと伝えられる。家には書類と器具と空き缶が積み上がり、家族とも疎遠になった。1944年2月23日、晩年を過ごしたニューヨーク州ビーコンの施設で、脳出血のため死んだ。80歳だった。

ベークライトそのものは、いまではほとんど使われない。もっと扱いやすい樹脂に取って代わられたからだ。ナイロンをはじめ、20世紀には次々に新しい合成の材料が生まれた。それでも、自然にない物質を設計して作れるという考えは、ここから広がった。そして、それは分解されにくい。1993年、アメリカ化学会はベークライトの開発を化学の歴史的な記念物に指定し、その銘板にはプラスチックの時代の始まりと刻まれた。私たちのまわりを埋め尽くす便利さと、海や土に残り続ける問題の両方が、ヨンカーズの研究室から始まっている。

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