ジョゼフ・モニエ
概要
南フランスの生まれ。パリの公園で庭師として働き、後に造園業を営んだ。橙の木を植える鉢が、温度差と根の力で割れることに悩み、金網を入れたモルタルで作ることを思いつく。1867年、鉢と桶で特許を取り、その後、管、貯水槽、床板、橋へと特許を広げた。彼は構造の理論を持っていない。なぜ鉄が引張を受け持つのかを説明したのは、後のドイツの技師たちである。特許を安く売り渡し、豊かにはならなかった。
関わったできごと(1)
鉄筋コンクリートAD1867年 · 特許を得た本文
ジョゼフ・モニエは1823年11月8日、南フランスのガール県にある村サン=カンタン=ラ=ポトリに生まれた。村の名に「陶器」の語が入るとおり、焼き物で知られた土地である。家は貧しく、彼は若くして庭仕事の道に入った。地元の貴族の庭で働いたあと、パリに出て、大きな庭園で庭師として働いたとされる。
当時のパリは、オスマン(オスマンのパリ改造)による大改造のさなかで、新しい大通りや公園が次々に造られていた。庭師の仕事は多かった。モニエはやがて独立し、造園と、植木鉢や園芸の道具を作る仕事を営んだ。
彼が悩んでいたのは、鉢だった。貴族や金持ちの庭では、オレンジなどの柑橘の木を大きな鉢や桶に植え、夏は庭に並べ、冬は温室へ運び込むのが習わしだった。その鉢が、よく割れた。根は年々太って内側から鉢を押し広げ、冬の冷え込みと夏の乾きが鉢を傷め、運ぶときにぶつけても割れる。木の桶は腐り、素焼きの鉢は割れる。
彼はセメントのモルタルで鉢を作ってみた。重く丈夫そうに見えたが、やはり割れた。そこで、中に鉄の網を埋め込んでみると、割れなくなった。1867年7月、彼は園芸に使う、鉄とセメントを組み合わせた持ち運びのできる桶で特許を取り、同じ年のパリ万国博覧会に出品した(鉄筋コンクリート)。
モニエは、この組み合わせをほかにも次々に応用した。水道の管や貯水槽、床や壁の板、橋、梁と、10年あまりのあいだに特許の範囲を広げていった。1875年には、ロワール地方のある城の庭に、長さ十数メートルの鉄筋コンクリートの歩道橋を架けた。鉄筋コンクリートで造られた最も古い橋の一つとされ、いまも残っている。
けれども、彼には構造の理論がなかった。なぜ鉄を入れると強くなるのかを、きちんと理解していなかったのである。コンクリートは押しつぶす力には強いが、引っぱる力にはひどく弱い。梁や床に重さがかかると、上の面は押され、下の面は引っぱられる。だから鉄は、引っぱられる側、つまり下のほうに入れなければ効かない。モニエは鉄の網を部材の真ん中あたりに入れることが多く、それでは鉄の力が十分に生きなかった。それでも彼の鉢や槽がうまくいったのは、薄い器では鉄がどこにあってもある程度効いたからである。
彼の方式を本当の意味で使えるものにしたのは、ドイツの技師たちだった。1880年代、ドイツの建設業者グスタフ・アドルフ・ヴァイスらがモニエの特許の権利を手に入れ、実際に試験をして、鉄をどこに入れればよいかを確かめた。1886年には、プロイセンの技術官僚マティアス・ケーネンが、鉄筋コンクリートの部材の強さを計算する方法を発表した。こうして「モニエ式」はドイツで理論の裏づけを得て、橋や建物に急速に広がった。鉄とコンクリートが温まっても冷えてもほぼ同じだけ伸び縮みし、コンクリートが鉄を錆から守るという、組み合わせの幸運も明らかになっていった。
モニエ自身は、豊かにならなかった。特許を安く手放し、自分の事業は大きく育たなかった。1906年3月13日、パリで死んだ。82歳だった。晩年は貧しかったと伝えられる。
彼はしばしば「鉄筋コンクリートの発明者」と呼ばれるが、それは正確ではない。1848年には、同じフランスのジョゼフ=ルイ・ランボーが、鉄の網にモルタルを塗って小舟を作り、1855年のパリ万国博覧会に出していた。イギリスのウィリアム・ウィルキンソンは1854年に鉄で補強した床の特許を取り、フランスのフランソワ・コワニェは1850年代に、鉄で補強したコンクリートで家を建てている。コンクリートそのものは古代ローマの人々も使いこなしていた(ローマのコンクリート)。
それでもモニエの名が残ったのは、彼が鉢から橋まで多くの特許を体系立てて取り、その権利がドイツで「モニエ式」の名のまま理論化され、広まったからである。名前が方式の名として根づいた。
植木鉢を割れないようにしたかった一人の庭師の工夫は、20世紀の都市の姿を変えた。高層の建物も、橋も、ダムも、鉄筋コンクリートなしには考えられない。日本でも関東大震災の後、燃えず崩れにくい建物の材料として広く使われるようになった。いま私たちが暮らす街のほとんどの建物は、鉄が引っぱりを、コンクリートが押しを受け持つという原理の上に立っている。