フリードリヒ・ゴットロープ・ケラー
概要
ザクセンの村の織工の家に生まれ、正規の教育をほとんど受けていない。少年のころ、蜂の巣を見て木から紙ができると考えたと自ら書いている。1843年、濡らした木を砥石に押しつけて繊維を得る装置を作り、翌年その紙で新聞を刷らせた。特許を得たものの、更新料が払えず失効し、権利は製紙業者フォルターに移った。生涯、貧しかった。後年、僅かな年金と名誉学位を受けている。世界の紙のほとんどが、彼の方法の子孫である。
関わったできごと(1)
木材パルプの紙AD1844年 · 作った本文
フリードリヒ・ゴットロープ・ケラーは1816年6月27日、ザクセン王国の小さな町ハイニヒェンに生まれた。家は機織りにかかわる職人の家で、貧しかった。通ったのは町の学校だけで、上の学校へ進むことはなかった。そのかわり手先が器用で、若いうちから織機の部品を作ったり直したりして暮らしを立てた。
19世紀の前半、ヨーロッパの紙は、使い古した麻や木綿の布、つまり襤褸(ぼろ)から作られていた(襤褸と紙)。印刷の機械が速くなり、新聞や本の需要が伸びると、襤褸が足りなくなった。製紙業者たちは襤褸を奪い合い、国によっては持ち出しを禁じるほどだった。藁や草など、代わりの原料を探す試みも続いていたが、うまくいかなかった。
ケラーは後年、着想のきっかけを書き残している。少年のころ、桜桃の種を砥石で磨いて首飾りの玉を作る遊びをしていて、削れた粉が水の中でほぐれ、綿のような繊維になるのを見た。また、蜂の仲間の巣が、木を噛み砕いて作られた紙のような素材だと知った。それなら、木を細かくすれば紙が作れるのではないか、と考えたという。百年ほど前、フランスの学者ルネ・レオミュールも蜂の巣を見て同じことを書いていたが、ケラーがそれを読んだ形跡はない。
1843年ごろ、彼は試作に取りかかった。回転する砥石に、水に浸した木片を押しつけ、水をかけ続ける。水は摩擦の熱を冷まして繊維が焦げるのを防ぎ、削れた繊維を洗い流す。こうして得られた繊維の混じった水を漉くと、紙ができた。木だけの紙はまだ弱かったので、襤褸から作った繊維を混ぜて使った(木材パルプの紙)。
まもなく、近くの町フランケンベルクで出ていた週刊の地方紙が、彼の紙を使って一つの号を刷った。紙面には、この号が木から作った紙に印刷されていることを伝える記事が載っている。
ケラーはザクセンで特許を得た。しかし彼には、装置を工場で使える大きさに育てる資金がなかった。翌1846年、彼はわずかな額で、製紙業者ハインリヒ・フェルターに権利を売り渡した。特許を更新し続ける費用も払えず、残りの権利も失われた。フェルターは装置を改良し、木をすりつぶす機械として各地に売り込んだ。木材パルプはやがてドイツから世界へ広がり、紙の値段は劇的に下がった。だが、その機械を最初に考えた職人の名は、長いあいだ忘れられていた。
ケラーはその後も工夫を続け、さまざまな機械や仕掛けを考えたが、どれも金にはならなかった。機械の修理などで暮らしを立て、多くの子を抱えて、生涯の大半を貧しく過ごした。
晩年になって、ようやく彼に光が当たった。1870年代、ドイツの製紙業界の人々は、自分たちの産業が彼の発明の上に立っていることを認め、募金を集めて彼に贈った。わずかながら年金も与えられ、名誉もいくつか受けた。1895年9月8日、79歳で死んだ。
いま、世界で作られる紙の大部分は木から作られている。木をすりつぶすケラーのやり方の流れをくむ機械パルプと、薬品で木を煮て繊維を取り出す化学パルプである。機械パルプは安く、いまも新聞や雑誌の紙に使われている。
安い紙は新聞を大衆のものにし、教科書や安価な本を普及させた。2000年近く前に中国で生まれた紙(蔡倫の製紙法)は、彼の発明によって、誰もが毎日読み捨てられるものになったのである。ただ、その代償もある。19世紀後半から20世紀にかけての木材パルプの紙の多くは、紙の中に残った成分や製造の過程で使われた薬品のために酸性になり、何十年かたつと黄ばんで崩れていく。中世の羊皮紙の写本が残る一方で、近代の新聞や本が図書館の書架の上で壊れつつあるのは、そのためである。
故郷ハイニヒェンには、彼を記念する博物館がある。生きているあいだに受け取れなかった評価は、死後になって、彼の名とともに集まった。